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源氏物語

源氏物語たより560

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     「なぜ」の封印   源氏物語たより560

  もう随分前のことになるが、東大大学院の小森陽一教授が、東京新聞に『物語の矛盾~「なぜ」重ね封印を解く~』という、誠に示唆に富んだ、面白い文章を載せていられた。
  昔話や童話には、「なぜ」という問いを誘発しながら、それを封印するという矛盾が内在されている。昔話や童話の「なぜ」の封印を解いてしまうと大変なことになり、子供の世界に安定や確実は巡って来なくなる、と言う。そのことを「浦島太郎」を例に挙げて解いていられた。
  概ね次のような要旨であったように記憶している。
 
  子供が、床に入り眠るに当たって、何度もお伽噺を聞きたがるのは、彼らが安定・安心を求めたいからであって、決して新しい知識を得たいからではない。彼らは、お伽噺を聴きながら、浦島太郎はなぜ竜宮城に行けたのかという疑問は持つかもしれないが、「亀を助けたから」という説明くらいに納得してしまい、安心してしまう。
  しかしそこには、浦島太郎に関する重大にして最大の問題が封印されたままなのだ。  
  漁師である浦島太郎は、乙姫様の最愛の親族であるタイやヒラメを毎日のように殺戮しているのだから、乙姫様にとっては、浦島太郎は不倶戴天の仇なのである。それにもかかわらず、たまたまの気まぐれから亀を助けたくらいで、飲めや歌えや踊れやの理想郷に案内し、果ては「玉手箱」まで土産に持たせるのである、というまことに重大な矛盾を抱えているのである。ひょっとすると、玉手箱の白煙は、「同朋のにっくき敵」ということで、乙姫様が考えに考えた最高の復讐手段であったかもしれないのだ 。
  しかし、この封印を解いてしまうと、子供たちに安定、安心、確実の世界は巡って来ない。したがって、昔話や童話に封印された疑問や矛盾は、疑問や矛盾のままにしておかないと、子供は安らかに眠れなくなる。

  メモ書きを見ながらの文章なので、飛躍があったりつながりが悪かったりして、意味が取りにくくなってしまっているかもしれないが、とにかく「浦島太郎が乙姫様の同朋の殺戮者だ」というのは面白い。大変な「なぜ」が封印されていたものである。

  妻にこの話をしたら、
  「子供というものは、寝床でママの昔話を聞いている時に、そもそも「なぜ?」なんて言わないものよ。安心して眠りの世界に入れるのは、ママが隣に寝ているからよ」
と素っ気ない。でも確かにそうかもしれない。善玉爺さんが灰を撒いたら枯れ木に花が咲いたなどあり得ないのに、子供は「ふむ、ふむ」と聞いているだけで、
  「そんな馬鹿なことあるわけないでしょ」
などという子はいない。もしいたとしたら、そんな子の将来は危ないし無気味だ。それにそんな矛盾や疑問を持ちながら聞いていたら眠れなくなるし体に良くない。
  私の母が昔話や童話を語ってくれたかどうかは記憶にないが、おそらく語ってくれたとしても「なぜ?」などとは聞かなかったであろう。そんな疑問を発したのでは、一心に話してくれている母に失礼になるではないか、という子供ながらの潜在意識もあったかもしれない。

  実は、昔話や童話は「なぜ」や矛盾の玉手箱だったのである。それにしても昔話や童話はどうしてあれほど荒唐無稽で矛盾だらけなのだろうか。ほぼ滅茶苦茶である。
  かちかち山、サル蟹合戦、一寸法師、わらしべ長者、鶴の恩返し・・。にもかかわらず、子供たちは「なぜ」を発することなく、おとなしく聞いている。
  「舌切り雀」もそうだ。大事な糊を食べてしまったというので、婆さんはスズメに罰を与えた。これは因果応報であるから当然の行為と言えば言える。しかしなぜ舌を切るなどという残忍極まりない方法を取ったのだろうか。糊を「食べること」と「舌」とには因果関係があったからであろうか。
  もし強欲な婆さんなら、舌など切らずに、スズメをいっぱい捕獲して、町の「スズメのお宿(新宿にある飲み屋)」にでも売りに行ったはずだ。あるいは自分で「スズメの焼き鳥屋」を経営した方が合理的である。皿の端に稲の実の爆ぜたのを置き、こんがり焼けたスズメを目の前にして、客と酒を飲み交わしながら、スズメの悪行、蛮行を誇大吹聴すれば、気持ちもまぎれるというのに。
「桃太郎」だってそうだ。凶悪・凶暴無比の鬼が住む鬼ケ島に行くのが分かっていながら、犬や猿や雉が供と言うのでは何とも頼りない。特に雉などは情報通信手段にしか使えない。熊とかライオンとか、せいぜい狼を連れて行くべきであった。これは明らかな矛盾である。
  それに、あの二匹と一羽は、桃太郎から黍団子をもらえなかったら、家来にならなかったというのだろうか。また、黍団子はお爺さんとお婆さんが桃太郎用に作ってくれたものだ。あんなにホイホイと上げてしまったのでは、自分の分が無くなってしまう。それでは鬼ケ島で縦横無尽な活躍などできるはずはない。
  それに不思議なことには二匹と一羽は、共通してお腰に付けた黍団子にまず目を付けている。相当の飢餓状況にあったのだろう。
  江戸の小咄では、まず犬が、
  「桃太郎さん、桃太郎さん、お腰に付けたものは何ですか」
と聞く。桃太郎が
  「お、これか、これは黍団子じゃ」
と答える。すると犬は
  「あ!あの不味いやつか」
と言っていて、「一つください」とは言っていないのだが。

  こんなことを書いていると際限がない。まさに昔話や童話は「なぜ」の玉手箱で、これを追求していたら、確かに面白いし、別の世界が見えてくるかもしれない。しかし、どうも骨折り損になる可能性も高そうな気がする。

  ところで、源氏物語であるが、源氏物語には、「なぜ」がない。皆無と言うわけではないが、千年も前の物語にしては、疑問を抱かせるところ、「そんな馬鹿な」と思わせるところは、まずない。
  同じ時代の「竹取物語」などは、「昔話」そのものだ。かぐや姫が、五人の貴公子に命じた難問は、謀略でありいじめに過ぎない。優しく美しいはずのかぐや姫のイメージには程遠い。「宇津保物語」にしても、最初の「俊蔭」の巻などは、俊蔭が、見知らぬ国に流れていって、そこで偶然三人の琴の名手に遭遇するとか、琴の材に殊に好い桐の大木にたまたま出会うなど、まさに荒唐無稽の出まかせばかりである。

  紫式部は、物語というものが子供の慰み物であったところから、はるかに高い次元に引き上げ、大人の読み物にした。したがって、そこには荒唐無稽や怪異や奇跡の入り込む余地はない。みなこの世に存在する事実ばかりである。また、彼女は神経質なほどに、筋に無理な展開はないか、矛盾や唐突すぎるところはないか、などに気を配っている。
  源氏物語に矛盾や無理や不合理を探すことは無駄な労力になる。ところが、国学者の中には、それを探したと言って、鬼ケ島に行って鬼の首を取ってきたように大喜びしている人がいる。が、よく当たってみれば源氏物語の方がいつも正しい。
  つまり「なぜ?」とか「そんな不合理な!」という面で源氏物語を見ない方がいいということである。「なぜ」は封印しておいて素直に読むことが源氏物語を味わう基本である。


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