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源氏物語

源氏物語たより564

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     「面白いから」読む  源氏物語たより564
 
  源氏物語はなぜ多くの人に読み継がれてきたのか、それは
  「面白いから」
の一言に尽きる。もちろん物語全体の筋の面白さがあるのだが、ただそれだけでは、何度も読み返すということにはならないだろう。筋の面白さに加えて、知的好奇心を刺激する内容がいたるところにちりばめられていることが、何度も読もうと思わせる原因になっているのだ。
  それでは、源氏物語のどこがどう面白いのだろうか、それをまとめておくことも、これからの源氏物語の読みの方向を決めるうえで大事なことだと思う。概略次のようにまとめてみた。

[1]光源氏という人物の面白さ、恋の多彩さ
 
①  これ以上ないという高い生まれと美貌の持ち主で、しかも諸芸・諸事多岐にわたる才能を持ち、まさに「天稟」といえる人間離れした人物の、華やかな活躍は、読む者の心を躍らせるに十分である。光源氏は、当時の姫君たちの理想の男であった。菅原孝標の娘は『更級日記』の中で
『物語にある光る源氏などのやうにおはせむ人を、年に一たびにても通はし奉りて・・』
と言っている。
②  しかし、人間離れしているからと言っても、いわゆる空想の超人、この世にあり得ないような人間ではない。我々と同じように息をしている男であり、我々と同じように悩み悲しみ、惑い、時には過ちをする、ごく普通の人間である。
③  その光源氏が繰り広げる恋の姿には一喜一憂させられる。その恋は、藤壺宮や六条御息所のような超一級の女性ばかりではない。二流どころの空蝉や三流どころの夕顔なども入っているところに独特な魅力がある。
④  また、その恋は単に甘いロマンスに満ちたものだけではない。いやそんな恋は一つもないと言ってもいい。むしろすべての恋に何らかの障害が付きまとっているからこそ、面白さが倍加されるのだ。
⑤  さらに、それらの恋の間に、政権争いなどが絡み、そこから生まれる女の妬(ねた)み嫉(そね)み、恨みや憎しみ、あるいはいどましさが渦巻いていて、物語に一層の深みと幅を与えている。

[2]余るところなく描かれる女の哀しみ

①  紫上の哀しみは、当時の女の哀しみの象徴である。主体的に生きることを閉ざされた平安時代の女は「待つこと」が宿命づけられていた。これは、当時の習慣であった「通い婚」ということに関係するのかもしれない。このことは、道綱の母が描いた『蜻蛉日記』にもよく表れている。夫・藤原兼家を待つしかない身は、あれほど激しく自己主張ができる女にしても、やはり現状を変えることはできなかった。
もちろん紫上は、源氏と同じ二条院や六条院に住んではいたのだが、ふらふらと彷徨する光源氏を待つ身であったことに変わりはない。「たまには落ち着いて家にいてください」とは決して言えない身なのである。自分の思いを表出できないのが、当時の女の一般であった。
後年、彼女が出家を申し出た時にも、光源氏は決して許そうとしなかった。そんなところに、女の哀しみが典型的に表れていて、涙を誘う。
しかも一番問題なのは、光源氏自身に紫上を悲しませているという意識が希薄であるということである、あるいは全くないと言ってもいいかもしれない。
②  このことは明石君も浮舟も同じである。朝顔のように毅然と源氏を拒否する女性は珍しいし、朧月夜のように自ら男を誘うことのできる女性も稀である。

[3]「あはれ」の諸相
  
源氏物語には「あはれ」という言葉が1028回も出て来る。これは岩波書店の『日本古典文学大系』でいえば、二ページに一回以上登場するということで、異常な程に高い頻度といえる。このことからしても、「あはれ」が、この物語の中心思想になっていることに疑いはない。
  この「あはれ」は、どんな意味を持っているのか、またどんな場合に誘発される心情なのか、類別してみた。詳しくは後に述べるつもりでいるが、簡単に類別すれば、次のようになるのではないだろうか。

① 愛しい・恋しい心情としての「あはれ」
源氏物語の中では、この心情を表す場合が最も多い。「あはれ」は「愛しい、恋しい」という心だと言ってもよいくらいである。これほど人の心を揺るがす事象はないからである。ところが、諸解説書は「愛しい、恋しい」という意味ではあまり訳していない。みな「気の毒だ」「可哀想だ」と訳してしまっているのだが、不思議なことである。
② 死や別れから誘発される心情の「あはれ」
これは当然なことであろう。死や別れほど悲しいことはないし、人の心を慟哭させるものはないからである
③ 季節の移ろいからくる「あはれ」
特に秋は、人の心に「あはれ」を引き起こさせる。例えば西行の
『心なき身にもあはれは知られけり 鴫立つ沢の秋の夕暮』
などは、典型的にこの情を表している。世俗の心(悲しい、嬉しいなど)を捨てたはずの僧侶でさえ、秋と言えば「あはれ」を感じざるを得ないのだ。この心情を表す歌は限りなくある。
『木の間よりもりくる月の影見れば 心づくしの秋は来にけり』  古今集
『春はただ花のひとへに咲くばかり 物のあはれは秋こそまさる』 拾遺集
「心づくしと」は、まさに「あはれ」である。
源氏物語でも、主な人物(葵上、六条御息所、紫上)が、秋に死んでいるが、このことに起因しているのかもしれない。
④ 特殊・特別なもの、珍しいものに触れた時に感じる「あはれ」
明石君が、明石の浦を離れる時に、
『昔の人も「あはれ」といひける浦の朝霧、へだたり行くまゝに、いともの悲しく・・』
と感じている。これは柿本人麻呂の
『ほのぼのと明石の浦の朝霧に島がくれゆく舟をしも思ふ』
から引いてもので、明石の浦と言えば、「朝霧」で代表されるのだ。明石の浦の朝霧は、特別な感情を引き出す景物だったのである。
特別なもの、独特なもの、珍しいものに触れた時に、人の心はしみじみとした情に浸されるものである。

[4]文章そのものの巧みさ

① 筋立ての妙
夕顔とのかかわりが、あのような形で終わるとは誰も想像すらしないし、朧月夜や紫上との出会いがあのような形で始まろうとは誰も思いもしない。また、『花宴』の巻末や『夢浮橋』の巻の締め方(これは源氏物語五十四帖の締めでもあるが)は、並みの作家にできる技ではない。
② 事象と事象のつながりの緊密さ
源氏物語のすべての事象・形象には一切無駄がなく緊密に繋がっている。また伏線の設定も誠に効果的である。これらの作法を駆使することによって、物語を円滑に展開させ、不自然さを感じさせない要因を生んでいるのだ。
③ 自在に駆使される滑稽、皮肉、機智、軽妙さ
深刻な場面に、滑稽や機智を何気なく挿入し、読む者の心を和ませたり、休ませたりして、次への読む意欲をそそっている。
また、尊敬すべき存在であるはずの僧侶や漢学者に対する皮肉や諧謔は、「人生さまざま」を思わせるし、人間とは一体何なのかを改めて考え直させる機縁になっている。
④ 引き歌の効果的な活用
源氏物語に出て来る引き歌の数は、700首とも千何十首とも言われている(要は引き歌かどうかよくわからないということ)が、これほど多彩に駆使できるのは、彼女一人の労なのであろうか疑問が湧くほどで、神業のような気がする。
紫式部は、古歌の引用だけではなく、史記や長恨歌や漢詩、あるいは催馬楽や民間伝承の歌など自由自在に引いてくる。やはり彼女の博識は神業なのだ。しかもそれらの引き方が実に効果的で、物語を躍動させる要因になっている。

[5] 時代小説としての物語
   
①  源氏物語は時代小説だと言われる。その冒頭「いづれの御時にか・・」からして、ある時代を暗示しているのである。
②  また実在の人物、例えば貫之や伊勢、宇多天皇や菅原道真などを登場させて、
「この物語は単なる空想物語、奇怪物語ではありません」ということを宣言しているのだ。モデルの多彩さは驚くばかりで、それによって読者は、
「この人物はひょっとすると源高明らかもしれない」
とか
「この人物は、今でいえば藤原道長に当たる、これは伊周を写している」
などと推測させ、興味をいやが上にも引き起こされる。
藤原公任などという一級の文化人までが、夢中になって源氏物語を読んでいたことが『紫式部日記』によって知ることができるが、事実を重んじた物語として大人が読むに値する読み物になっていた証拠である。
③  源氏物語は、風物・習慣・行事・有職・故実の博物館でもある。これが後世の歴史研究者や物語読者の知的好奇心を引き起こすところとなっている。

  この他にも、源氏物語を面白くしている要因は数限りなくあるであろう。親子のあり方や形代の問題、心理描写や、自然と人事の融合の巧みさなど紫式部にしかできない技と言えるものは枚挙にいとまがない。
 
私が、二十回も源氏物語の原文を読んだということは、読むたびに新しい発見があるからだ。またそれは、原文で読むからこそ、可能なのだ。いろいろな解説書を参考にしたり歴史書を繙いたり、時には『長恨歌』の全文読んでみたり、『古今集』1111首を眺めてみたりすることによって、紫式部がこっそり忍ばせておいた価値あるところを、発見できるのである。
原文読みは、古典の響きの良さを感じ取るだけではなく、そこに隠された価値を発見するための方便なのである。 



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