源氏物語

源氏物語たより569

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     鳥辺野のあはれ   源氏物語たより569

  自分を寵愛してくれた帝と三歳の愛しい我が子(光源氏)を残して、無念のうちに亡くなった桐壷更衣は、火葬される運びとなった。通常、娘の葬儀に母親が参列することはないのだが、娘の死が信じられない母親は、娘が火葬にされ、灰になったのを見ることで「今は亡き人」と諦めよう、またその煙と一緒に空に昇ってしまいたい、と急きょ参列することになった。その場面がこう描かれる。
  『「同じ煙にも昇りなむ」と、泣きこがれ給ひて、御送りの女房の車に慕ひ乗り給ひて、愛宕という所に、いといかめしうその作法したるに、おはし着』
く。「今は亡き人」などと理性的に考えてはいたものの、火葬場に着くや否や車からまろび落ちそうになるほど惑い狂ってしまう。

  ここに「愛宕」という地名が出て来るが、これは京都市東山区の清水寺に近い一帯を指し、火祭りで有名な愛宕神社のある嵯峨野の愛宕とは違う。岩波書店『日本古典文学大系』の著者・山岸徳平は、これをはっきり「六道珍皇寺」としている。これに寄れば、桓武天皇の平安遷都に際して、ここを火葬場に定めたのだとある。恐らくそうなのであろう。
  更衣の邸は二条にある。二条からは、三条通りを左折し、鴨川を渡り、川添いに南下し、清水寺に向かってゆるい坂を上って、左側、そこが六道珍皇寺である。二条からここまでは相当の距離がある。恐らく四キロくらいはあろう。そこを牛車に揺られて行くのだから、年老いた者には辛い。「まろび落ちそう」になったのはそのこともあるかもしれない。

  六道珍皇寺は、現在でいえば、五条大橋を渡ってすぐの北側、六波羅密寺と建仁寺の間にある小さな寺である。日ごろは閑散としていて人が訪れることも少ないが、周囲は人家が密集していて、とても昔ここに「火葬場nがあった」などとは思いも及ばない。しかし、平安時代はそうではなかった。梅原猛の『京都発見』(新潮社)には、
  「京の都の東、阿弥陀が峰の麓は鳥辺野と言われたが、そこは死者を埋葬する場所であった。・・鳥辺野一帯はめったに人が近づかない死の空間であった。その死の空間と生の空間の接点が六道の辻であり、そこに六道珍皇寺という奇妙な名の寺が建っている。かつてはこの六道の辻に、人は屍を運んで、そこで僧に引導を渡してもらった。そこから鳥辺野に行き、死者を放(ほう)ると、後をも見ずに急いで逃げ帰ったのである」
とある。
  五条坂から清水寺に登る途中の南側に「ちゃわん坂」という坂がある。この南側一帯には今も広大な墓地が広がっているそうだ。ここが鳥辺野で、平安時代からの墓地の痕跡である。ここは、古来多くの物語や歌や随筆に描かれてきた所で、例えば『徒然草』には、
  『あだし野の露きゆる時なく、鳥部山の煙立ち去らでのみ住みはつる習ひならば、いかにもののあはれもなからん。世は定めなきこそ、いみじけれ』
という有名は一文がある。「あだし野」は、いわゆる化野念仏寺あたりにあった昔の墓地である。吉田兼好は、人は死ぬが故に「あはれ」があるのだという。そしてそれを象徴するものとして「あだし野」をあげ「鳥部山」をあげた。
  桐壷更衣もこの鳥辺野で火葬にされ、ここに葬られた。兼好が言うとおり、更衣の死は確かに「あはれ」ではある。が、それにしてもあまりに不本意な一生であり、若すぎる死であった。
 
 そういえば、夕顔も葵上も若くしてここに葬られている。
  夕顔は、源氏との愛の交接のその夜、突如死んでしまった。驚き慌てた源氏は、なすすべもなく、翌朝惟光の到着を待って彼の指示に従うしかなかった。惟光は言う。
  『むかし見給へし女房の、尼にて侍るひんがし山の辺に(死骸を)移したてまつらん。・・辺りは人しげきやうに侍れど、いとかごかに侍り』
  惟光の知っている者が東山の寺にいるからそこに死骸を移そう、と言うのである。「かごか」とは、「閑静」という意味である。
  この時は、源氏は、惟光ひとりに東山まで夕顔の死骸を運ばせたが、その翌日、自分の薄情を恥じ、どうしても夕顔に逢いたいと惟光に無理を言い、あるまじきことに東山に安置されている夕顔の死骸に逢いに行く。その様が情趣豊かに描かれている。
  『十七日の月さし出でて、河原のほど、御先の火もほのかなるに、鳥部野の方見やりたる程など、ものむつかしきも、何ともおぼえ給はず。かきみだる心地し給ひて、おはし着きぬ。・・
  寺々の初夜もみな行ひ果てて、いとしめやかなり。清水の方ぞ、光多く見え、人の気配もしげかりける』
  「初夜」とは、午後六時から十時にかけて僧が行う勤行のことで、源氏が着いた時には、寺々ではそれもすべて終わっていたというから、十時を過ぎていたということになる。そんな時刻に死骸と会っていたのだ。背筋も凍るほどであったはずだが、源氏はそうではなかった。彼は夕顔の手を捉えて、悲しみを訴え続けるのである。
  その帰りには、空はもう明け方になっていた。道には露が満ち、朝霧も深い。鴨川添いを馬で来た源氏は、惑い狂って途中で馬から滑り落ちてしまう。そして清水の観音に向かって祈り、川の水で手を洗う。
  平安の都は、朱雀大路を中心にして右京と左京に分かれる。右京は湿地であまり人家が建たず発展しなかったという。まして鴨川を渡った東側などは、人の住むところではなく、寺しかなかったはずである。後ろは深い山に囲われていて、鳥辺野には広大な墓地(捨て場)がある。夜は、人を寄せ付けない死の空間である。そんなところに行き、そこから源氏と惟光はとぼとぼ帰って来たのだ。

  それでは葵上の場合を見てみよう。
  彼女は夕霧を生んですぐに亡くなっている。源氏とはついに心解けて暮らすこともなかった。その意味では不遇で不如意な二十六年の生涯であった。親の左大臣たちは、物怪の仕業ではないかと、加持・祈祷を必死にし、その回復を祈るのだが、日に日に死の相が明らかになってきた。いかんともしがたく、
  『鳥部野にゐてたてまつるほど・・こなた・かなたの御送りの人ども寺々の僧など、そこら広き野に所もなし』
という盛大な葬儀になった。葬送に参加した人々で、広い鳥辺野一帯が所もないほどにごった返した、という。時の人・左大臣の娘であり、天皇の寵児・源氏の正妻であるから、鳥辺野が人々で埋め尽くされたのも当然のことである。しかし、いくら参会者が多いからと言って、無念の死が和らぐものではない。
  葵上の火葬の煙が空に昇って行った情況を思い出し、その空を眺めやりながら、源氏はこんな歌を詠う。
  『昇りぬる煙はそれとわかねども なべて雲井のあはれなるかな』
  葵上の昇って行った煙は、どれとはっきりしないけれども、空の雲を見ると、なべてあはれを感じずにはいられない、というのである。葵上に対して終始冷淡であった源氏は、そのことを反省したのだろう、四十九日が過ぎるまで、信じられないほどに神妙に葵上の喪に服するのである。
  しかし、時すでに遅しである。これは夕顔についても言えることである。

  兼好は、この世は定めなきが故に「あはれ」であり、人は死ぬがゆえに「あはれ」であると言う。ここで兼好が言う「あはれ」は、「趣がある」ということであろう。極端に言えば「面白い」ということである。「人は死ぬが故に面白い」ということで、それは確かに理ではあるが、僧侶であるから言える非情な理である。
  ただ、兼好は極めて王朝主義の強い人で、王朝の文化をこよなく愛した。源氏物語にも深く心酔していたようである。恐らく、彼のこの言葉の裏には、桐壺更衣や、夕顔や葵上の死が含まれていたのかもしれない。兼好の先の言葉の後を見てみよう。
  『命あるものを見るに、人ばかり久しきはなし。・・命長ければ恥多し。長くとも四十に足らぬほどにて死なんこそ、めやすかるべし。・・(そうでなければ)ひたすら世をむさぼる心のみ深く、もののあはれも知らずなりゆくなん、あさましき』
  おっしゃるとおりである。しかし、更衣も夕顔も葵上もあまりに若かった。兼好は七十歳近くまで生きた。

  今、清水寺辺りは人でごった返している。清水坂も五条坂も三年坂も人とぶつからないで歩くのが困難なほどである。特に最近は外国人が多い。そのうちの何人が、この辺り一帯が、かつて死者を焼き、埋葬する場所であったなどと思いながら歩いているだろうか。少なくとも六道珍皇寺辺りを徘徊してもらうと、その思いがかすかにでも湧くかもしれないのに。
  私は、今度はちゃわん坂の南にあるという広大な墓地を見てみるつもりでいる。 


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