源氏物語

源氏物語たより570

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     『心の闇』の歌   源氏物語たより570

  『人の親の心は闇にあらねども 子を思ふ道にまどひぬるかな』

  この歌は、後撰集に採られている藤原兼輔(紫式部の曾祖父)のもので、
 「子を持つ親の心は闇ではありませんが、子どものことを考えると心配でどうしていいか分からなくなって(惑乱して)しまいます」
という意味である。時代や身分、階層を越えたごく一般的な親の思いを詠っている。
 
  源氏物語には、なんとこの歌が十九回ほどにわたって引かれているのである。もちろん源氏物語の引き歌の中では、群を抜いての使用頻度である。
  「十九回ほど」と言ったのは、私が数えた結果であって、あるいはこれよりもさらに多いかもしれないのだ。というのは、歌の「引き方」がさまざまであるからである。「こ(子)のよの闇」とか「心の闇」とか「こ(子)の道の闇」とか「闇のまどひ」、あるいは「闇にくれて」などと表現し、歌の一部を取ってみたり変えてみたりしているので、読み落としてしまう可能性があるのだ。いずれにしても極端に多く使われている引き歌であることに変わりはない。
  これはどういうことを表しているのだろうか。私は、一つには「親と子」のあり方が、源氏物語の主題の一つになっていることに関係しているからではないかと思っている。
  またさらに別の意味もあるのだが、それについては最後に述べることにする。

  特にこの引き歌が頻発するのが、桐壷更衣が亡くなって、帝が靫負の命婦を更衣の里に使いに出す場面である。ここではわずか三ページのなかに三度も使われている。
  故更衣の邸に入っていくと、命婦の目には、
  『けはひあはれなり。(更衣の母は)やもめ住みなれど、人ひとり(更衣)の御かしづきに、とかくつくろひ立てゝ、目やすきほどにて過ぐし給ひつるを、闇にくれて、臥し給へるほどに、草も高くなり、野分にいとど荒れたる心地して』
と映るのだが、この「闇にくれて」が、先の兼輔の歌を引いた部分である。
  更衣の父親は疾うになく、母が一人で更衣の世話をしてきた。今まで邸の中は、とかく見栄えよくつくろって過ごしていたのだが、亡き子の闇に沈んで臥せている間に、草も高くなってしまって、野分ですっかり荒れてしまった気配がする、というのである。
  たった一人の子を亡くした母親とすれば、何もする気力も起きず、邸が荒れるに任すのも仕方がないことである。それほど子を失うということは親にとってショックが大きいのだ。兼輔の歌は、このような親の心を見事に詠っていると言える。
  この後、更衣の母は、命婦にありったけの悲しみを吐露する。「くれ惑ふ心の闇を晴らしたいが・・」と言ってみたり、「わりなき心の闇・・」と愚痴ってみたりする。「わりなき」とは、理屈の通らないということで、「帝の愛情が深すぎたが故に、こんな事態になってしまった。それがかえって辛い。でも、一方では帝の御心をありがたくも思うのだが・・」と、転々煩悶している。
  「帝の愛をさえ恨めしく思う」とは、まことに恐れ多いことなのであるが、「子を思ふ道に惑ひぬる」結果の失礼なのだから、許してやらざるを得ないだろう。それほどに子を失うことは、やり場のない深い悲しみとなり煩悶となるのだ。兼輔の歌が、更衣の母の言動を見事に証している。

  次に、これほど深刻な情況ではないが『須磨』の巻の「心の闇」を見てみよう。
  須磨に着いた源氏の所に、紫上から手紙が届く。それを見るにつけ、源氏は愛する紫上を不幸に陥れてしまった自分を省みるとともに、また愛しさ会いたさに堪え難くなるのである。 
  一方、我が子・夕霧のことも思い出すのだが、
  『大殿の若君(夕霧のこと)の御ことなどあるにも、いと悲しけれど、おのづから会ひ見てん。たのもしき人々、ものし給へば、うしろめたうはあらず、と思しなさるゝは、なかなかこの道は惑はれぬとやあらん』
  これは随分ひどいことを言ったものである。「夕霧のことを思えば悲しいには悲しいが、いずれは会えるのだ。それにしっかりした後見人もいることだし、さして心配なことではない」と言う。確かに夕霧には祖母もいることだし、左大臣だってついているのだから、源氏が思う通り心配なことはない。
  しかし、次が許せない。
  「源氏は、子の道にはあまり迷うこともないらしい」と言う。直前に、「紫上のことを考えると、夜も昼も面影に浮かんできて、悲しくて恋しくて逢いたくてならない」と嘆いたばかりなのに、子どものことはそれほどでもないと言うのだから、現金な男と言わざるを得ない。兼輔の歌の主旨とは正反対になっている。ある大学教授が「源氏は、我が子・夕霧を愛していなかった」と言っていたが、こんなところを指していたのかもしれない。
  しかし、後の『野分』の巻では、夕霧をひどく自慢にもするのである。
  夕霧は、野分の見舞いに朝早く源氏の所にやって来た。夕霧が帰った後、鏡を見ながら紫上に、源氏はこう自慢する。
  『中将(夕霧)の朝げの姿は清げなりな。ただ今は、きびはなる(幼い)べきほどを、かたくなしからず見ゆるも、心の闇にや』
  「かたくなしからず」とは、悪くはないということで、夕霧がなかなか立派に見えるというのも、子を思う闇ゆえの親馬鹿だろうということである。
  ところが、ここも次がいけない。彼は鏡に映る自分の姿を見て、
  『わが御顔は、古りがたく、よし』
と見ているようだというのだから。「私の顔は何時までも若々しくて、なかなか美しい」ということで、源氏得意の我褒めである。夕霧のことは、もう彼の頭の隅から消えてしまっている。

  『若菜上』の巻にも、先の源氏の須磨の巻でのことと同じような情況が出て来る。
  朱雀院には、出家に際して心配なことがある。それは、寵愛する朧月夜を残していかなければならないことである。別れの悲しみに涙をこらえている朧月夜を見て、慰めかねて、こう言うしかない。
  『子を思ふ道には、限りありけり。かく思ひ沁み給へる別れの堪えがたくもあるかな』
  朱雀院にとって、「出家に当たって悲しいのは、子との別れではない、子どものことはしょせん諦めがつくからいい。肝心なのはこれほど愛しているあなたのことで、あなたとの別れは、私にとってはどうにも堪えがたいことなのです」と子どもを引き合いに出して必死に慰めるのである。
  やはり源氏と朱雀院は兄弟であるからであろう。

  ところが、出家したにもかかわらず、朱雀院は、やはり子どものことを諦めることなどできはしなかった。とんでもない事態が出来してしまったのだ。
  源氏と結婚した朱雀院の娘・女三宮に、柏木との不義による子供ができてしまった。女三宮とすれば誰にも言えないことで、そのこともあって、病づいてしまう。娘の病を知った朱雀院は、おちおち仏道の勤めもしていられなくなった。何しろ女三宮は、朱雀院が最も可愛がった皇女であるからである。
  朱雀院は我慢しかねて、ついに山を下り、六条院に行き、源氏にこう弁解する。
  『世の中を省みすまじく思ひ侍りしかど、なほ、まどひ醒めがたきものは、この道の闇になん侍りければ、行ひも懈怠して、もし遅れ先立つ道の、道理のまゝならで、別れなば、やがてこの怨みもや、形見に残らんと、あぢきなさに、この世のそしりをば知らで、かくものし給ひつる』
  「老いた者が先に死ぬという道理のとおりにならず、もし女三宮が先に死んでしまうようなことになれば、「会わずにしまったこと」が、後々の形見(執念)として残るであろう、だから、世間の非難も省みずに、ここ六条院に出かけてきてしまった」と言うのだ。出家、勤行中の院ともあろうお人が、娘のために山を下りるなどということは常識では考えられないことなのだ。
  しかも、生まれた子が、娘の不義によるものとは知らない朱雀院は、娘の「出家したい」という嘆願に従って、源氏の意向をも無視して、出家させてしまう。
  これこそまさに「人の親の心の闇」による典型的な「まどい」で、理性も冷静な判断も霧消してしまっている。

  さて、兼輔の歌がこれほど源氏物語に引かれたのは、源氏物語が「親と子」のありようをテーマの一つにしているから、ということだけではない。兼輔の歌以外に適切なものがなかったからではなかろうか、と私は思っている。後撰集や拾遺集を当たってみたわけでないので、断定することは避けなければならないが、少なくとも源氏物語が盛んに引き歌として使っている古今集には「親と子」を詠った歌は一つもないのである。新古今集も情況は同じで、ただ一つ、兼輔の先の歌を本歌取りにしたものがるだけである。
  このことから類推しても、その他の歌集も、ほとんどが男女の恋や自然詠ばかりで、子どもを詠ったものはない、と言い切れそうである。もちろん羈旅歌や哀傷歌などはあるが。
  このことは、平安貴族にとっては、子どもは、歌の材料にはなりにくかった、ということを表しているのではなかろうか。別に言えば、子どもを「あはれ」という側面から詠うのは難しいということである。

  最後に、万葉集の山上憶良の『子らを思ふ歌』を上げておこう。
  『至極の大聖(釈迦のこと)すら、なほし子を愛(うつく)しぶる心あり。いわむや、世の中の青人草(あをひとくさ 一般の民のこと)、誰かは子を愛しびざらめや。

  瓜食めば 子ども思ほゆ 栗食めば まして偲ばゆ 何処より来たりしものぞ 眼交(まなかひ)に もとなかかりて 安寝(やすい)しなさぬ』
  「眼交に・・」は、「目の前に盛んにちらついて、私に安眠させないことよ」という意味である。子どもを思う親の心がよく表された歌である。
  しかし、これ以外には万葉集にも子どもを詠った歌は極めて稀である。やはり歌になりにくいようである。子どもは物語にはなるが、歌にはならないいということだろう。
  学生社の『シンポジウム日本文学 古今集』には
  「あれ(兼輔の歌)はかなり有名で、すぐ引き歌に使われるでしょう。そういうふうに使われるということは、兼輔という人がらと、その和歌が結びついて伝えられる要素を兼輔自身が持っていた(からでしょう)」
とあったが、そうではないのではなかろうか。他に「親が子を思う」歌がなかったからで、源氏物語も、親と子の話に、兼輔の歌を持ってこざるを得なかったのは、そのためと考えられる。


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