源氏物語
源氏物語たより572
手におえない光源氏 源氏物語たより572
冷泉帝の女御である梅壺女御(六条御息所の娘で、前斎宮、後に中宮)が二条院に里下がりしてきた。秋の雨が静かに降り、前栽の花が咲き乱れる頃である。
秋と言えば、伊勢に下るために精進潔斎をしていた六条御息所に逢いに、野宮を尋ねた季節である。御息所は既に亡き人であるが、それを思い出して 御息所に繋がる人ということで、光源氏は女御の部屋を訪ねる。
女御のいる部屋の御簾の中に彼はすいっと入って行き、几帳だけを隔てて彼女と直接対話する。源氏は、彼女の歴とした義父なのだから、御簾の内に入るのは許されることなのであろう。
源氏が、女御の母の思い出をしんみりと話すと、感に堪えなかったのだろう、彼女は少し泣いている気配である。その様が
『いとらうたげにて、うち身じろき給ふほども、あさましくやはらかに、なまめきておはすべかめる』
と源氏には感じられる。
余談のようになるが、ここに「泣いている気配である」とか「なまめきておはすべかめる(優美であられるようである)」とかあるのだが、源氏は直接女御の姿を見て話しているわけではないのである。全て几帳の向こうにいる彼女の様子を想像して、そう感じているのだ。
現代の我々は、源氏物語などを読んでいると、男は、女性と直接話をしているかのように思ってしまうのだが、それは誤解である。現代にはこういう習慣がないからつい誤解してしまうのだが、男と女が直接面と向かって話すことができるのは、もう男女の関係ができている場合であって、たとえ義父でも、養女に直接会うことはできない。兄妹であっても、成人に達していれば、それはできない。
したがって、源氏は
『見たてまつらぬこそ、くちをおしけれ』
と、この後、嘆く結果になるのである。
ということは、女御が「いとらうたげ」であるとか「あさましくやはらかに、なまめきておはす」というのは、あくまでも源氏の推測に過ぎないということである。
そこで疑問に思われてくるのが、几帳越しにもかかわらず、相手の女性が「らうたげ(可憐)」であるとか、また、かすかに身じろぎをしただけで、「やはらかに、なまめきて(優艶に)」いる、などと感じ取ることができるものだろうかということである。
そんなことは困難、と我々は思うのだが、どうも平安時代の男には、それが可能だったのではないかと予測される。というのは、彼らにとって、女性と会うことは容易ではなかったし、まして御簾や几帳を隔てて対話することができるチャンスはめったにない。そこで、彼らは、女性の一挙手一投足に全神経を集中させたはずである。だから、ちょっとした動作で、女性の人となりや容姿を推し量ったり慮ったりすることができたのではないかと思われるのである。
特にこの場合は、光源氏である。彼は人に勝れて鋭敏な感覚を持っていたから、たとえ几帳の向こうの女性でも、人となりや容姿を鋭く認知することができたのだ。
彼は、「やはらか」で「なまめかし」女御を想像することはできても、実際にその姿を見ることができないことをひどく残念がるのだが、その残念がり方がまた尋常ではない。
『胸うちつぶるゝ』
というのだから、穏当ではない。
この後、源氏は、自分のつれなさのために御息所との関係が思わしくいかず、そのために彼女が源氏に対して恨みと不満を持ったままあの世に行ってしまったことを、悔恨の情をもって女御に語り、さらにこんな自己反省もする。
『(自分は今、帝の後見をしているが、そんなことにはさして興味はない。むしろ)かやうなるすきがましき方は、しづめ難うのみ侍る』
「色好みの面は、どうしても抑えられない」ことが一番の問題、というのだから、随分正直な男とも言えるのだが、こんなあけすけなことを女性に言うべきであろうか。
と思っていたら、やはりこの言葉は、女御に迫るためのワンスッテプに過ぎなかった。そのことが次の言葉で分かる。
『おぼろげに思ひ忍びたる御後見とは、思し知らせ給はんや。「あはれ」とだに、のたまはせずば、いかに甲斐なく侍らん』
ついに彼の本性が露わに出てしまった。毒牙をきらりと見せたと言えよう。
少し難しい文章であるが、「おぼろげに」とは、この場合は「いい加減でない」という意味になる。全体は、
「あなたを後見しているのは、心からあなたを思い慕っているからであって、いい加減な思いからではありません。そのことをご存じでいられましょうね。だから一言でもいい、「あはれ」とおっしゃって欲しいのです。もしそうでなかったら、後見している甲斐もありませんので」
ということになる。
そこで、この「あはれ」が重大な意味を持ってくるのだが、ほとんどの解説書が
「かわいそう」
と訳している。どうして彼らはそんな訳し方をするのか、その料簡が理解できない。谷崎潤一郎や瀬戸内寂聴などの作家も、すべて「かわいそう」であるが、それは全く間違っている。
なぜなら、ここまで自分の本心をさらけ出してしまった源氏が、「かわいそう」と言ってもらえば、それで済むとは到底思えないからである。源氏が女御に言ってもらいたいのは、もっと恋情を生に表す言葉である。つまり、
「私も光源氏さまを“愛しく”思っております」
という言葉だ。実はもっと直截に「愛している」「好きです」としたいのだが、それでは少々強すぎるので、「愛(いと)しい」が一番妥当かと思うのである。
しかし、女御がそんなことを言えるはずはない。ひどく困惑して無言でいると、さすが言いすぎてしまったと感じ取った源氏は、急に話題を変える。今度は
「あなたは春と秋ではどちらが好きですか」
という問題を投げかける。これまた難問である。女御は、
「どちらが好きかは決め難いのですが、みなさんが、秋は特別に人恋しくなるものだとおっしゃいますし、母が亡くなったのも秋でしたので・・」
と仕方なしに「秋が・・」と応じる。
と、なんとこの「秋が・・」に、源氏が食らいついた。あれで諦めたわけではなかったのだ。この執拗さには驚くしかない。彼は今度は歌でこう迫って行く。
『君もさば あはれをかはせ 人知れずわが身に沁みる秋の夕風』
これもやや意味が取りにくいので、円地文子の訳(新潮社)を借りよう。
「あなたが秋をあわれ深くお思いになるならば、同じ思いの私にご同情下さい」
円地文子の訳は、いつも端的で快い。ただし「あはれをかはせ」を「ご同情ください」と訳したのは感心しないし、そもそも間違っている。
この言葉も重大な意味を持っているので、手元にある解説書などを比べてみよう。
角川書店 「同情してください」
岩波書店 「同情を交わしなされよ」
小学館 「しみじみいとしい思いを交わしてください」
谷崎潤一郎 「同情してください」
瀬戸内寂聴 「私の恋をあはれと思ってほしい」
林 望 「私と同じ思いを交わしてください」
ここの「あはれ」は、先の「あはれ」の延長であって、さらに突っ込んだ意味を孕んでくる。それは「かはせ」という言葉が加わったからである。つまり
「愛しいという感情を共有しようではありませんか」
というニュアンスを持たなければならないということである。したがって、角川や谷崎の訳は論外である。瀬戸内の訳は、源氏の意中をほぼ正しく捉えているが、「かはせ」の部分が欠落している。もっとも適切なのは小学館であろう。
源氏は、女御の「秋が・・」という言葉を捉えて、「私も秋が好きだから、秋の好きな者同士・・」と相当強引に、身勝手に、厚かましく捻じ曲げてしまったのだ。
しかもこの間に
『いま少し、ひがごともし給ひつべけれど』
とある。「ひがごと」とは「間違ったこと」という意味である。恐らく几帳の帷子の下から手を伸ばして、女御の手を掴むとか、袖を握って離さないとかいうようなことを暗示しているのであろう。
呆れた女御は言葉もない。源氏にただ事でない雰囲気を感じ取り、また気味悪くもなった女御は、几帳からずっと奥に退いてしまう。
さすがに自分の行為が「若々しすぎるし、怪しからぬ」ものと感じた源氏は、矛を収めるのだが、それでもまだ怨み言は忘れない。
「あさましく私を恨んでしまったものですね。でも本当に思慮深い方はそんな態度はとらないものですよ。まあ、いいでしょう。ただこれからはあまり憎まないで下さいね。辛くてなりませんから」
とても自分の行為を「怪けしからず」などと反省しているとは思えない怨み節である。
そもそも、源氏は、女御を誰だと認識しているのだろうか。
女御は、帝が寵愛する妃なのである。しかも自分の養女でもあり、帝もまた自分の子なのである。自分の子の妻と過ちを犯そうというのだから罪は重い。これは藤壺宮との密通よりも、さらにたちは悪い。でも、彼の意識からはそんな理性的な感覚は欠落してしまっている。やはり
『すきがましき方はしづめ難うのみ侍る』
ところから出る因縁としか言いようがない。
ここに、光源氏という人間の本然の姿がすべて、露わに出た、と思う。誠に色好みで、破廉恥で、不道徳で、独善的で、強引な男で、手が付けられない。
しかし、男というものは、誰でも本来的に少なからず、好きがましく破廉恥で不道徳な面を持っているのではなかろうか。それが姿を現すかどうかが問題なのである。「魔がさす」という言葉がるが、魔は誰もが持っているもので、それが出てきた状態を魔がさすというのではなかろうか。源氏は、魔がさしっぱなしであったのだ。その意味では彼は、男の本然の姿を見事なほどに体現している男なのだ。いわば男の典型と言ったらいいかもしれない。
一般の男と源氏を分けるものは、前者が源氏のような独善さや強引さを持っていないことであり、彼のような行動力や言葉の巧みさを持っていないことだけなのではなかろうか。
私は、『薄雲』の巻のこの場面が、源氏物語の中で最も源氏物語らしい所であると思う。ここには人間(男)の抑えようとしても抑えられない本然の姿が見事に現わされているのだから。現代でも、抑制が効かないで魔がひょっこり顔を出す事件がひっきりなしに起こるからこそ、週刊誌やテレビが潤っているのではなかろうか。
冷泉帝の女御である梅壺女御(六条御息所の娘で、前斎宮、後に中宮)が二条院に里下がりしてきた。秋の雨が静かに降り、前栽の花が咲き乱れる頃である。
秋と言えば、伊勢に下るために精進潔斎をしていた六条御息所に逢いに、野宮を尋ねた季節である。御息所は既に亡き人であるが、それを思い出して 御息所に繋がる人ということで、光源氏は女御の部屋を訪ねる。
女御のいる部屋の御簾の中に彼はすいっと入って行き、几帳だけを隔てて彼女と直接対話する。源氏は、彼女の歴とした義父なのだから、御簾の内に入るのは許されることなのであろう。
源氏が、女御の母の思い出をしんみりと話すと、感に堪えなかったのだろう、彼女は少し泣いている気配である。その様が
『いとらうたげにて、うち身じろき給ふほども、あさましくやはらかに、なまめきておはすべかめる』
と源氏には感じられる。
余談のようになるが、ここに「泣いている気配である」とか「なまめきておはすべかめる(優美であられるようである)」とかあるのだが、源氏は直接女御の姿を見て話しているわけではないのである。全て几帳の向こうにいる彼女の様子を想像して、そう感じているのだ。
現代の我々は、源氏物語などを読んでいると、男は、女性と直接話をしているかのように思ってしまうのだが、それは誤解である。現代にはこういう習慣がないからつい誤解してしまうのだが、男と女が直接面と向かって話すことができるのは、もう男女の関係ができている場合であって、たとえ義父でも、養女に直接会うことはできない。兄妹であっても、成人に達していれば、それはできない。
したがって、源氏は
『見たてまつらぬこそ、くちをおしけれ』
と、この後、嘆く結果になるのである。
ということは、女御が「いとらうたげ」であるとか「あさましくやはらかに、なまめきておはす」というのは、あくまでも源氏の推測に過ぎないということである。
そこで疑問に思われてくるのが、几帳越しにもかかわらず、相手の女性が「らうたげ(可憐)」であるとか、また、かすかに身じろぎをしただけで、「やはらかに、なまめきて(優艶に)」いる、などと感じ取ることができるものだろうかということである。
そんなことは困難、と我々は思うのだが、どうも平安時代の男には、それが可能だったのではないかと予測される。というのは、彼らにとって、女性と会うことは容易ではなかったし、まして御簾や几帳を隔てて対話することができるチャンスはめったにない。そこで、彼らは、女性の一挙手一投足に全神経を集中させたはずである。だから、ちょっとした動作で、女性の人となりや容姿を推し量ったり慮ったりすることができたのではないかと思われるのである。
特にこの場合は、光源氏である。彼は人に勝れて鋭敏な感覚を持っていたから、たとえ几帳の向こうの女性でも、人となりや容姿を鋭く認知することができたのだ。
彼は、「やはらか」で「なまめかし」女御を想像することはできても、実際にその姿を見ることができないことをひどく残念がるのだが、その残念がり方がまた尋常ではない。
『胸うちつぶるゝ』
というのだから、穏当ではない。
この後、源氏は、自分のつれなさのために御息所との関係が思わしくいかず、そのために彼女が源氏に対して恨みと不満を持ったままあの世に行ってしまったことを、悔恨の情をもって女御に語り、さらにこんな自己反省もする。
『(自分は今、帝の後見をしているが、そんなことにはさして興味はない。むしろ)かやうなるすきがましき方は、しづめ難うのみ侍る』
「色好みの面は、どうしても抑えられない」ことが一番の問題、というのだから、随分正直な男とも言えるのだが、こんなあけすけなことを女性に言うべきであろうか。
と思っていたら、やはりこの言葉は、女御に迫るためのワンスッテプに過ぎなかった。そのことが次の言葉で分かる。
『おぼろげに思ひ忍びたる御後見とは、思し知らせ給はんや。「あはれ」とだに、のたまはせずば、いかに甲斐なく侍らん』
ついに彼の本性が露わに出てしまった。毒牙をきらりと見せたと言えよう。
少し難しい文章であるが、「おぼろげに」とは、この場合は「いい加減でない」という意味になる。全体は、
「あなたを後見しているのは、心からあなたを思い慕っているからであって、いい加減な思いからではありません。そのことをご存じでいられましょうね。だから一言でもいい、「あはれ」とおっしゃって欲しいのです。もしそうでなかったら、後見している甲斐もありませんので」
ということになる。
そこで、この「あはれ」が重大な意味を持ってくるのだが、ほとんどの解説書が
「かわいそう」
と訳している。どうして彼らはそんな訳し方をするのか、その料簡が理解できない。谷崎潤一郎や瀬戸内寂聴などの作家も、すべて「かわいそう」であるが、それは全く間違っている。
なぜなら、ここまで自分の本心をさらけ出してしまった源氏が、「かわいそう」と言ってもらえば、それで済むとは到底思えないからである。源氏が女御に言ってもらいたいのは、もっと恋情を生に表す言葉である。つまり、
「私も光源氏さまを“愛しく”思っております」
という言葉だ。実はもっと直截に「愛している」「好きです」としたいのだが、それでは少々強すぎるので、「愛(いと)しい」が一番妥当かと思うのである。
しかし、女御がそんなことを言えるはずはない。ひどく困惑して無言でいると、さすが言いすぎてしまったと感じ取った源氏は、急に話題を変える。今度は
「あなたは春と秋ではどちらが好きですか」
という問題を投げかける。これまた難問である。女御は、
「どちらが好きかは決め難いのですが、みなさんが、秋は特別に人恋しくなるものだとおっしゃいますし、母が亡くなったのも秋でしたので・・」
と仕方なしに「秋が・・」と応じる。
と、なんとこの「秋が・・」に、源氏が食らいついた。あれで諦めたわけではなかったのだ。この執拗さには驚くしかない。彼は今度は歌でこう迫って行く。
『君もさば あはれをかはせ 人知れずわが身に沁みる秋の夕風』
これもやや意味が取りにくいので、円地文子の訳(新潮社)を借りよう。
「あなたが秋をあわれ深くお思いになるならば、同じ思いの私にご同情下さい」
円地文子の訳は、いつも端的で快い。ただし「あはれをかはせ」を「ご同情ください」と訳したのは感心しないし、そもそも間違っている。
この言葉も重大な意味を持っているので、手元にある解説書などを比べてみよう。
角川書店 「同情してください」
岩波書店 「同情を交わしなされよ」
小学館 「しみじみいとしい思いを交わしてください」
谷崎潤一郎 「同情してください」
瀬戸内寂聴 「私の恋をあはれと思ってほしい」
林 望 「私と同じ思いを交わしてください」
ここの「あはれ」は、先の「あはれ」の延長であって、さらに突っ込んだ意味を孕んでくる。それは「かはせ」という言葉が加わったからである。つまり
「愛しいという感情を共有しようではありませんか」
というニュアンスを持たなければならないということである。したがって、角川や谷崎の訳は論外である。瀬戸内の訳は、源氏の意中をほぼ正しく捉えているが、「かはせ」の部分が欠落している。もっとも適切なのは小学館であろう。
源氏は、女御の「秋が・・」という言葉を捉えて、「私も秋が好きだから、秋の好きな者同士・・」と相当強引に、身勝手に、厚かましく捻じ曲げてしまったのだ。
しかもこの間に
『いま少し、ひがごともし給ひつべけれど』
とある。「ひがごと」とは「間違ったこと」という意味である。恐らく几帳の帷子の下から手を伸ばして、女御の手を掴むとか、袖を握って離さないとかいうようなことを暗示しているのであろう。
呆れた女御は言葉もない。源氏にただ事でない雰囲気を感じ取り、また気味悪くもなった女御は、几帳からずっと奥に退いてしまう。
さすがに自分の行為が「若々しすぎるし、怪しからぬ」ものと感じた源氏は、矛を収めるのだが、それでもまだ怨み言は忘れない。
「あさましく私を恨んでしまったものですね。でも本当に思慮深い方はそんな態度はとらないものですよ。まあ、いいでしょう。ただこれからはあまり憎まないで下さいね。辛くてなりませんから」
とても自分の行為を「怪けしからず」などと反省しているとは思えない怨み節である。
そもそも、源氏は、女御を誰だと認識しているのだろうか。
女御は、帝が寵愛する妃なのである。しかも自分の養女でもあり、帝もまた自分の子なのである。自分の子の妻と過ちを犯そうというのだから罪は重い。これは藤壺宮との密通よりも、さらにたちは悪い。でも、彼の意識からはそんな理性的な感覚は欠落してしまっている。やはり
『すきがましき方はしづめ難うのみ侍る』
ところから出る因縁としか言いようがない。
ここに、光源氏という人間の本然の姿がすべて、露わに出た、と思う。誠に色好みで、破廉恥で、不道徳で、独善的で、強引な男で、手が付けられない。
しかし、男というものは、誰でも本来的に少なからず、好きがましく破廉恥で不道徳な面を持っているのではなかろうか。それが姿を現すかどうかが問題なのである。「魔がさす」という言葉がるが、魔は誰もが持っているもので、それが出てきた状態を魔がさすというのではなかろうか。源氏は、魔がさしっぱなしであったのだ。その意味では彼は、男の本然の姿を見事なほどに体現している男なのだ。いわば男の典型と言ったらいいかもしれない。
一般の男と源氏を分けるものは、前者が源氏のような独善さや強引さを持っていないことであり、彼のような行動力や言葉の巧みさを持っていないことだけなのではなかろうか。
私は、『薄雲』の巻のこの場面が、源氏物語の中で最も源氏物語らしい所であると思う。ここには人間(男)の抑えようとしても抑えられない本然の姿が見事に現わされているのだから。現代でも、抑制が効かないで魔がひょっこり顔を出す事件がひっきりなしに起こるからこそ、週刊誌やテレビが潤っているのではなかろうか。
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