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源氏物語

源氏物語たより582

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     見ざらましかば、口惜しからまし  源氏物語たより582

  私には、光源氏が、空蝉と男女の関係を本当に持ったのかどうか、未だに分からない。何度読んでもそうは読み取れないのである。
  源氏は、空蝉を籠絡すべく、彼女の部屋に勝手に入り込み、例の甘言を弄して盛んに言い寄るのだが、彼女はひたすら拒否し続けて、一向に靡こうとしない。たとえ「強情な奴、気に食わないやつ」と源氏に思われようが、それでも構わないとまで頑なになっているのである。また、源氏自身も、これでは強姦まがいに犯すことなどできないと思っているのだから、事は簡単に運ばないはずだ。
 
  二人は性的な関係を持ったと従来考えられてきた根拠は、次の箇所にある。
  『心苦しくはあれど、見ざらましかば、口惜しからまし、と思す』
  (頑なに構えて泣いている女の様は、可哀想ではあるが、見なかったら心残りであろうと思う)
  岩波書店の『日本古典文学大系』などは、「見ざらましかば、口惜しからまし」の箇所を、
  「自分が空蝉に逢わないなら、残念な事であろうもの(逢ってよかった)と」
と訳している。この訳では二人が契ったとは到底言えないので、私の考えと同じである。
  源氏は、この後も
  「どうして私をそれほどに嫌な男とばかりお思いになるのですか」
とひたすら空蝉を恨んでいる。この言葉は、いくら相手が頑なであったとしても、性的関係を持った後の男の心境とは思えない。もっと優しく相手を宥(なだ)めて、「また次の機会を」と思うのではなかろうか。この源氏の思いは、いつまでも続いていて、 
  「あなたの冷淡さをもっと怨んでいようと思うのに、夜明けになってしまった。うるさく鳥まで鳴いて、私の目を覚まさせようとしているではなか」
と、恨みと嘆きと不満の歌を詠っている。甘やかな夜を過ごした男の後朝の歌には程遠い。
  これでも二人は男女の関係を持ったと言えるのだろうか。

  それでは別に、小学館の『日本の古典』を見てみよう。この箇所を
  「不憫ではあるけれども、もしもこの人と契ることがなかったとしたら、どんなにか心残りだったろうにとお思いになる」
と訳していて、完全に「契る」と取っている。ただ「心残りだったろうに」と過去形にしているのはどういうわけなのだろうか。
  角川書店の『源氏物語評釈』は、岩波と同じように訳しているのだが、解説の部分で、
  「女を見るのは特別な男、結婚相手、夫である。「見る」とだけ言って結婚を意味し、夫婦として暮らすことを意味する」
と丁寧に説明し、二人は男女の関係を持ったことと捉えている。
  しかし、「見る」という言葉だけを根拠に、これほどはっきり二人は関係を持ったのだと解釈していいものだろうか。

  そこで、角川書店の『古語辞典』で「見る」の項を引いてみた。すると「見る」には、いわゆる視覚的に対象を捉えるという意味以外に、
  「会う」「対面する」

  「男が女に会う」「夫婦関係を結ぶ」「妻に迎える」
などもあった。『源氏物語評釈』が言う通りで、後者の例として、源氏物語『若紫』の巻が上げられていた。
  『(若紫を)いとどあはれに見まほし』
  北山で見つけた少女は、兵部卿宮の娘で、藤壺宮には姪にあたるということを知った源氏は、彼女をますます愛おしく思い、「妻に迎えたいものと思った」という下りである。確かに「見る」にはそのような意味があったのである。

  考えてみれば、当時男が女を直に「見る」ことはなかった。御簾越しや几帳を隔てて「見る」ことができれば、相当二人の関係は良好になっているというしるしであった。そうでない場合(関係が深まっていない場合)は簀子でのあしらいか、外である。
  逆に言えば、女が男に直接顔を見られるのは大変な恥だったということである。『宇津保物語』に、主人公・仲忠の母が、帝に呼ばれて参内する時に、いくつもの几帳(移動用)で周囲を囲って、人に見られないようにする場面がある。それほどに顔を見られないように女性は用心をしたのである。
  だから、『若菜上』の巻で、蹴鞠の様子を御簾の陰で見ていた女三宮が、柏木と夕霧にその立ち姿を見られてしまったのは、あり得ない失態なのである。
  あの事件以来、柏木はますます女三宮の虜となってしまうのだが、「見た」ことが、「女三宮は私のもの」と言う錯覚を生んでしまったのだと言えなくもないのである。

  後に源氏が小君(空蝉の弟)に、空蝉との関係をこう語っている。
  『あこ(お前)は知らじな。その伊予の翁よりは(私の方が)先に見し人ぞ』
  「伊予の翁」とは、空蝉の夫のことで、小君には義父に当たり、相当の高齢である。源氏は、小君が事情を知らないことを良いことに、あの翁よりも自分の方が先に空蝉と関係を持っていたのだ、と嘘をつくのである。この「見し」を単に「私の方が先に会ったのだ」と訳したのではインパクトに欠ける。小君は、源氏の言葉をすっかり信じ込んでしまって、
  「きっと源氏さまのおっしゃる通りなのだろう。それにしても伊予介はひどいことをするお人だ」
と思い込んでしまうのだから、源氏も罪な人である。

  こう見て来ると、どうやら源氏が「見ざらましかば」と思ったのは、彼女とここで性的関係を結んでおかなければ、一生後悔するぞと思って、性的関係を強行したと取った方がよさそうである。

  何回読んでも、あの時、源氏と空蝉が性的関係を持ってしまったとは思えなかったのだが、「見ざらましかば」の「見る」に、そのような意味があったのでは、私の捉え方が浅かったと思うしかないようだ。
  もっとも、あの源氏が女と何もないままに、おめおめ方違え先から帰ってきてしまったのでは、好色男としての源氏の沽券にかかわることになってしまうし、源氏物語の源氏物語らしさも薄れてしまうかもしれない。
 
  それにしても「見る」という行為ほど不思議なものはない。現代ほど自由自在にあけすけに、何でも見られる時代はないのだろうが、それをを幸せに思う。私は電車に乗るのが好きで、乗るとすぐ車内をきょろきょろと見回す。それが私の車内での習わしになっている。電車は社会の縮図であるから、いろいろな人間模様が見えてきて、眠ってなどいられない。
  もっともその第一の目的は、美人を探すことではあるが。車内の女性をさまざまに品定めするのが楽しいし、時には胸をときめかせてしまう女性を発見することもある。そういう女性を発見した時には、光源氏ではないが「あはれに見まほし」と思うことがないでもない(めったにないが)。 
  だから、女性専用の車両などが来ると、何とも味気なくなってしまう。まして車内に几帳などが、もし立てられるような時代が来るとすれば、電車の魅力などすっかりなくなってしまうことだろうと思う。男女ごちゃまぜの電車が望ましい。現代男性の特権を大事にしたいものだ。
  そんな私の視線を「心やまし」と見ている女性もいるかもしれないが、それもまた善しである。




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