源氏物語

源氏物語たより585

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     「あはれ」の対極にあるもの   源氏物語たより585

  紫式部が、源氏物語を創作するに当たって、その基盤に「あはれ」を置いているということに間違いはない。「あはれ」という言葉が、五十四帖の中で1、028回も使われていることでもそのことが証明できる(この回数は私が数えたもの)。
  だからと言って創作の目的が「あはれ」であるということにはならない。どんな物語も創作の目的は、読者を楽しませることであろう。読者の心をわくわくさせること、時には涙を流させ、時には笑いを誘うなどのために作者は苦心惨憺する。「あはれ」はあくまでも読者を感動させるための手段である。近代の小説などは、作者自らの思想信条を訴えることが目的で、そのために読者の反応は別に問わない、というようなこともあるかもしれないが、それでも作者はより多くの読者を惹きつけて、自らの思想信条を分かってもらい広めていきたいと思うのではなかろうか。
  まして昔物語が、読者の反応を軽視するはずはない。竹取物語は、かぐや姫が奇想天外な難問を突き付け、それを五人の貴公子が何とかして解決しようとする滑稽な行動を通して読者を惹きつけようとしている。宇津保物語は求婚譚や芸術(琴)の奇瑞などを、落窪物語は継子いじめを物語の基盤として、読者を喜ばせようとして作られていると言ってよいだろう。
  しかし、いずれも源氏物語ほどに読者に歓迎されていないのは、その文章の稚拙さや完成度の低さもあるが、源氏物語が創作の基盤にした「あはれ」のように、人間の高度な精神作用をその基盤としていないということに起因しているのではなかろうか。

  私は、人に「あはれ」の情を引き起こさせる要素の多くは、もの・ことの「変化する相」においてではないかと捉えている。源氏物語が、「恋」を中心に据えているのは、恋ほど激しく変化する事象はないからである。
  先日、テレビで「ムードミュージック ベストテン」と言う番組を見ていたら、ベスト2にあがっていたのが、和田弘とマヒナ・スターズが歌う「誰よりも君を愛す」(川内康範作曲)であった。この歌の二番の歌詞を聞いていて、「あ、これだ!」と深く感じるところがあった。

  愛した時から 苦しみが始まる
  愛された時から 別離(わか)れが待っている
  ああ それでもなお命かけて
  誰よりも 誰よりも君を愛す

  恋とはまさにこれである。恋の歓びももちろんあるであろうが、その喜びもいつ悲しみに変わるか分からない、という不安定要素を恋は常に内包している。いつ相手の心変わりがあるかもしれない、いつ別れがやって来るかもしれない、という怯えに惑わされ続けるもの、それが恋なのである。
  古今和歌集にあれほど多くの恋が詠われているのも、彼らがその変化する相に限りない執着と関心を持っていたからである。恋の相はまた人生そのものでもある。人生とは変化してやまないものである。死別、生別などは言うまでもない。病気も源氏物語ではしばしば描かれる。桐壷更衣、葵上、柏木、紫上・・それは病が死と言う激変に繋がっていることもあるが、病者がこれからどう変わっていくか分からない不安定状況に、ハラハラドキドキさせられるからである。そこに「あはれ」の心情が生まれてくるのである。
  自然(季節)もまた変化して止むことがない。この世に変化しないものはない。また変化するからこそ人生は面白いし悲しいし味があるのだ。
  源氏物語が古今集の歌を多く引いているのも、ともに基盤とするものが「あはれ(変化)」であったことに由来する。

  逆に言えば、源氏物語は、変化しないものは物語の題材としないということである。
  では変化しないものとは、どんなものであろうか。いろいろあるだろうが、まずは卑近な事象を考えてみよう。
  人間が本能的に持っている欲、つまり食欲や性欲などが上げられよう。また人間の身体、機能にかかわるもの、いわゆる生理現象もその一つと言っていいだろう。
  食欲がどうして「あはれ」とかかわりを持たないのか疑問に思う人もいるかもしれないが、とにかく源氏物語にはほとんど食事の場面が描かれることはないのである。もちろん宴席における酒とかそのための若干の肴とかは出て来る。しかし今テレビなどで盛んに放映されるような食事そのものを目的とする場面はついぞ見ない。
  私は、いつも今のテレビは安易すぎると思っている。なんでも食べ物で番組を構成してしまう。紀行番組などを見ていても、せっかく名所や景勝を訪ねているというのに、すぐにやれラーメンだ、刺身だ、ロースだとなってしまって、「おいしい!美味しい!」と大騒ぎをする。変わり映えしないことおびただしい。そもそも食などというものは、どんなに工夫し努力しても、もともと変化に乏しいものであるから、発展性がない。美味しいとか満腹したとかがあるだけである。

  性欲は、恋と不即不離の関係にあるから、「あはれ」と密接に結びつくのではと思うかもしれないが、性欲には変化がない。単調な快感があるだけである。源氏物語が、際どい所でこれを避けているのはそのためである。
  人間の生理にかかわる現象もそうだ。排泄行為や睡眠などに変化を求めること自体無理がある。それにそもそも品がない。

  ところが、源氏物語に時にそれが描かれることがあるのだ。どんな場合であろうか。
  
  光源氏は、空蝉に恋の炎を燃やして三度にわたって迫って行く。ところが三度とも思うような成果を上げられない。特に三度目の求愛などは惨めなもので、空蝉に、衣一枚残して逃げられてしまう。仕方なく本意でもない軒端荻と契るしかなかった。源氏の見事なまでの失敗で、見る影もなく紀伊守の邸を後にするしかなかった。
  その時の光景が実に滑稽で、稀代の美男・源氏の生涯における一大汚点になってしまった。

  こと志と違ってしまった源氏は、その翌朝、不満を抱えたまま帰らざるを得なかった。源氏を案内した小君が隣に寝ていたのを起こして、妻戸をそっと開けてこっそりと這い出ようとする。誰にも見咎められてはならないのだ。
  ところが何と、年老いた女房に見つかってしまう。女房は不審な者がいると大げさに騒ぎだす。
  『あれは、誰そ』
  仕方なく小君は自分の身を明かす。するとさらに
  『夜中に、こは、なぞ歩かせ給ふ』
と詰めより、しかも一緒に妻戸から出てこようとするではないか。小君も、源氏がいることが分かってしまっては誠に具合が悪いので、源氏を「早く」とばかり妻戸の外に押し出す。ところが外は月が一点の影もないほどに輝いていて、小君以外に、月の明かりに照らされた背の高い男(源氏)がいることが女房に分かってしまう。
  『またおはするは、誰ぞ』
と女房は追及してくる。
  源氏と悟られては一大事と思っていると、なんと、この女房、勝手に判断して、源氏を、背の高いことで有名な女房の一人と思い込んでしまうのである。小君と、背の高い女房が夜の忍び逢いをしていると思ってしまったのだ。
  相手の錯覚のおかげで、とにかく絶体絶命の危機は切り抜けた。と思ったら、この女房、渡殿の所にじっと潜んでいた源氏に直接声をかけるではないか。しかし、眼も多少不自由なのかも知れない、源氏を背高の女房と思い込んでいることもあり、自分勝手な話をペラペラ源氏に話し掛けるだけである。
  『一昨日より腹を病みて、いとわりなければ・・え堪ふまじくなん』
  腹痛で我慢できないというのである。そして
  『あな、はら、はら』
と言って、二人の前を通り過ぎて行った。腹がきゅうきゅう鳴るわ、痛くてたまらぬはで、恐らく厠に急いで行くのだろう。
  おかげで、危機が去り、邸を抜け出すことができた。源氏は
  『なほ、かかるありきは、軽々しく、危ふかりけりといよいよ思し懲りぬべし』
と深く反省したようである、というのだ。
  腹を病むのも病気には違いないが、この女房の場合は下痢である。品がない病気である上に、「厠」に急いでいるようなのも、源氏物語には型破りな何とも滑稽な醜態である。 

  それにしても紫式部は、なぜこんな下の話をここに出したのだろうか。それは、恐らく源氏の唯一とも言える女性遍歴の失敗譚を、この女房の醜態や粗忽さを出すことによってさらに滑稽化しようとしたのではなかろうか。源氏の失敗に花を添えたというわけである。下痢や厠は「あはれ」と無縁なものであるが故に。

  「あはれ」とはほど遠い生理の話をもう一つだけ上げておこう。
  源氏が、朝顔の邸を訪れた時に、奇妙な老女(女五の宮)が登場する。源氏や朝顔の叔母に当たる人であり、桐壷帝の妹である。もう相当耄碌(もうろく)しているらしく、源氏を目の前において、べた褒めをするような非常識の持ち主である。
  この老女が、源氏に昔話を長々とするのだが、そのうちになんということか
  『あくびうちし給ふ』
のである。そして
  『「宵惑ひをし侍れば、ものもえ聞こえやらず」との給ふほどに、いびきとか、聞きしらぬ音すれば・・』
という無様さ。あくびの弁解をしているうちに、いびきまでかき始めてしまったのである。でも源氏にとってはかえって幸いなことで、朝顔の所に早く飛んでいける。
  「あくび」も「いびき」も、展型的な人間の生理である。止めようとして止められるものではなく、いずれも極めて平凡極まりない日常的な、個人的なことである。しかし、品のないことであり他人の前ですべきことではない。まして源氏のような貴人を前にしては、必死に堪えなければならないことなのである。でもそれができない。
  これらは「あはれ」とはおよそ対極にあるもので、物語の題材にはなり得ない。しかしそれをあえて出したということは、この老女性の、老いさらぼいた滑稽な姿を誇張して見せようという考えからであろう。

  人間の生理の中でも、究極なものは「屁」であろう。さすがに源氏物語には一度も登場しない。女流文学者の紫式部が「屁」の話をするなど所詮できないことではあるのだが、それよりも人間の生理や欲のような、日常的で変わり映えしない現象は、そもそも「あはれ」の埒外であることにも拠るからである。
 



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