源氏物語

源氏物語たより592

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     源氏物語紀行   源氏物語たより592

  京都二泊三日の旅をした。十一月中にと思っていたのだが、宿が取れず十二月の六日からの三日間になったしまった。外国人観光客が多く、簡単には宿が取れなくなっている。海外の人が多く来ればいのかどうか疑問である。しかし、十二月とはいえ寒さは全くなく快適な旅ができた。紅葉もそれなりに残っていて、案外十二月は京の旅のねらい目ではないかと思った。
  今回の目的は、来年のクラス会の幹事が私に回って来たので、そのコースの下見を兼ねたものであったが、やはり回っているうちにいつの間にか源氏物語の史跡巡りが中心になってしまった。

  最初の日は、宇治。京阪宇治駅から、源氏物語ミュージアム、宇治上神社、宇治神社、宇治川、そして平等院というありふれたコースである。
  源氏物語ミュージアムは、宇治十帖を中心とした資料などを基にして造った博物館である。薫が、宇治八の宮の娘・大君と中の君が琴と琵琶を合奏している様子を垣間見ている姿が、等身大の人形によって再現されていたり、源氏物語の宇治川周辺の情景がパノラマ状の模型になって作られたりしている。このパノラマは規模も大きく一見の価値はある。
  しかし、全体的には工夫も努力も足りず、展示物や資料も少なく、誠にお粗末で見るに値しない。西本願寺に近い「風俗博物館(源氏物語の世界を、人間の四分の一大の人形などによって再現している)」の精巧な人形たちに比べると、話にならない。あの博物館から、人形などを借り出したりすればいいのだ。

  宇治上神社の社殿(本殿、拝殿)は国宝で、簡素にして美しい。日本最古の神社建設と言われる社殿が鬱蒼とした森に抱かれて静まっている。
  匂宮は、中の君と結婚したが、思うように会うことができない。紅葉見物に宇治を訪れるが、母・明石中宮への配慮や供人の手前があって、中の君の所には行けず、人々が歌い騒ぐ宴席にいるしかない。その宴で奏でる笛の音などが、対岸の中の君の所にまで聞こえてきたと物語にはある。
  八の宮の邸は、この宇治神社がモデルになっていると言われ、一方の匂宮の居所は、平等院(当時は道長の別荘)がそれに模されている。そこで奏される楽の音が、宇治川を挟んで聞こえてくるというのだが、本当だろうか。そんなことを考えながら、宇治川の中州(橘島)に懸かっている朝霧橋を渡って平等院に向かった。宇治川の瀬の音も激しいので、とても対岸にまで笛の音などが届くとは思えない。
  宇治橋の麓に紫式部の像がある。宇治川の荒き瀬と遥かな紅葉の山を背景にして、式部が巻物を両手に持って思案顔をしている像である。源氏物語の想でも練っているのだろうか。
  ここは「橋姫」伝説の場で、その像もどこかにあるはずだ。薫が浮舟を思って橋姫伝説の歌をつぶやく場面がある。
  『さむしろに衣かたしき今宵もや 我を待つらん宇治の橋姫』
  「かたしき」とは、自分の衣の片方だけを敷いて、独り寝することで、「今頃、浮舟は私を待って一人さびしく寝て待っていることであろう」と思っている歌である。その独り言を、こともあろうに匂宮が聞いてしまう。実は匂宮と浮舟は既にできている仲であるのだ。薫の独り言に焦った宮は、雪の日、単身浮舟を訪ねる。ここに二人の雪の宇治川逃避行が展開される。この時、浮舟が、二人の男の愛の間に悩み、将来を心配して詠んだ歌が
  『橘の小島の色は変わらじを この浮舟ぞ行方知られぬ』
である。「あなた(宮)は、心変りはしないとおっしゃいますけれども、私の将来は一体どうなるのか不安でなりません。まるでこの頼りない浮舟と同じ思いでございます」という意味である。
  彼女はやがて、二人の男の板挟みに悩み、宇治川に身を投じる。
  『寝られぬままに心地も悪しく、みな(正気も)違ひたり。(夜が)明け立てば、川の方を見やりつつ、羊の歩みよりも(死地に)ほどなき心地す』
  彼女が宇治川に投身する直前の心境である。
  宇治川の両岸は、源氏物語オンパレードで、源氏物語に関係する碑や像に事欠かない。総角の古跡、与謝野晶子が源氏物語を詠った歌碑、浮き舟と薫が寄り添う像・・。
  『しめやかに心の濡れぬ川ぎりの立ち舞ふ家はあはれなるかな』
  (与謝野晶子ガ橋姫を思って詠った歌)

  平等院は、藤原頼通が、元々父道長の別荘であったものを寺としたものである。その昔は、光源氏のモデルの一人である源融の別荘であった。
  平等院の圧巻は、鳳凰堂の壁面の飛天でなかろうか。鳳凰堂内の飛天は暗くて見にくいが、宝物館では身近に見ることができる。「南20」や「南24」の飛天の見事さは、筆舌を尽くす。と言うよりも、平等院が千年の歴史の風雪に、こうして残って来たと言うこと自体が奇跡である。この宇治川はしばしば戦場になっている。源三位頼政はここで自刃しているし、義仲と頼朝の争いではここで先陣争いが展開されている。それらの戦火を生き延びてきた平等院は脅威と言うしかない。千年の昔を今見ることのできる幸せを感じる。

  二日目は、上賀茂神社、大覚寺、野宮神社、天竜寺、渡月橋である。
  上賀茂神社は、もちろん葵祭りの主たる舞台である。前回は祭りの行列の後に付いて、賀茂川沿いをここまで歩いて来てしまったが、今回は賀茂街道をバスで来た。
  国宝の社殿は立派であることは言うまでもないが、今回は「ならの小川」を中心にして見て回った。百人一首で有名な
  『風そよぐならの小川の夕暮は 禊ぞ夏のしるしなりける  従二位家隆』
を「京都書房 評解小倉百人一首」は、
  「「風そよぐならの小川の夕暮は」は、楢の葉をそよがせる夕暮れに清浄な神事を溶け込むように配して、清澄な美を感じさせよう」
と評している。確かに上賀茂神社の境内を流れる「ならの小川」は、清澄そのもので、水量豊かにどこまでも澄んでいる。ここで禊をすれば、いかにもすべての汚れは洗い流されてしまいそうである。この神社を特徴付けているのがこの小川であることに間違いはない。社務所で「人形」を買った。ペラペラの紙が、10センチほどの人の形に切り取られていて、この紙で穢れたところ(患っているところ)を撫でて、この川に流せば、その穢れは瞬時に流れて去って行くと言う。
  それにしても、子供のころ、この「ならの小川」を「奈良の小川」と思っていたのが懐かしい。こんなところに「奈良の小川」が流れていたとは。

  大覚寺には何度来たことであろう。ここの特徴は、建物である。寝殿造りを理解するには恰好な場所で、欄干、簀子、廂の間、母屋の関係や、半蔀、御簾などが模範的に理解できる。
  この寺は源氏物語には、『松風』の巻に登場する。明石からようよう京に出てきた明石君は、都の真ん中(源氏の二条院)に直接出て行くのは、とても自信がない。そこで、暫時大堰川の近くに住むようになる。源氏は、上京してきた彼女に逢いたくてならないのだが、紫上への配慮からなかなか逢いに行けない。その時に口実にしたのが、源氏が嵯峨に建設中であった「御堂」である。
  『つくらせ給ふ御堂は、大覚寺の南に当たりて、滝殿の心ばへなど、(大覚寺に)劣らずおもしろき寺なり』
とある。「滝殿」とは、これも百人一首で有名な大覚寺に有ったという「名こその瀧」のことである。
  大覚寺の南にある寺と言えば、清涼寺で、今は「嵯峨釈迦堂」と呼ばれて親しまれている。ここも源融の別荘であったところで、大堰川からもほど近い。紫上に遠慮しつつ、やれ「寺の飾りつけをしなければ」とか「普賢講をするから」とか口実を設けて、こっそり明石君の所に通って行ったのである。清凉寺には何度も行っているので今回は割愛した。ここには源融とその父嵯峨天皇の墓(碑)がある。

  野宮神社や渡月橋は十二月だというのに、相変わらず混雑を極めていた。
  野宮神社は、六条御息所と縁が深い。娘が伊勢の斎宮になったことで、源氏との愛を断ち切って伊勢まで娘に同道しようというのである。そのために、娘どもども嵯峨の野宮で精進潔斎することになった。源氏は、御息所への未練と自分が冷淡な男と思われたまま彼女を伊勢にやるわけにもいかないという意地から、秋、この野宮を訪ねる。
  『はるけき野辺を分け入り給ふより、いとものあはれなり。秋の花みな衰えつつ、浅茅が原も枯れがれなる虫の音に、松風すごく吹きあはせて・・』
  名文として名高い箇所である。源氏物語の野宮神社の様子も実に荘厳にして清浄を尽くす。
  しかし、今そんな雰囲気は微塵もない。人人々々で溢れかえっている。野宮神社と言っても、誠に小規模でお粗末、神社らしき建物は何もない。恋愛成就のお札を売る小さな小屋があるのみである。これでは源氏が、下鴨居に身を乗せ、御簾を引き被って御息所の手を握り、別れの恋を嘆いた情趣はとても偲ぶことができない。
  『「暁の別れはいつも露けきを こは世に知らぬ秋の空かな」
  (源氏は)出でがてに(御息所の)御手をとらへて、やすらひ(なかなか帰ることができないでもじもじしている様)給へる』
  昔を偲ぶものと言えば黒木の鳥居と柴垣くらいのものである。野宮神社に続く竹林の竹の一本一本が、ひどく細く貧相だった。

  最後の日は、永観堂、南禅寺、清水寺,風俗博物館と回った。
  永観堂は初めてである。紅葉の永観堂と言われるそうであるが、紅葉はほとんど終わっていて、苔の上に散り敷いた落ち葉を庭仕事の人々が搔き集めていた。やや人手不足なのだろう、スギ苔が、錦糸苔(私の命名)に浸食されて哀れであった。ただ寺内の雰囲気は落ち着いていていかにも寺と言う感じを残している。本堂の柱がすべてケヤキ作りで、その木肌が美しい。
  この寺の一番の見物は「見返り阿弥陀」であろう。この寺を象徴するように優しく慈愛に満ちた魅力的な仏様である。この寺は、平安時代初期の創建で、弘法大師の弟子が開基と言うが、源氏物語には一切登場しない。
  南禅寺はやや期待はずれ、枯山水の庭も以前見た時の面影がない。三門だけは豪壮で、あの上から見た景色は確かに「絶景かな!」と言えるのかもしれない。これは鎌倉時代の禅寺(臨済宗)なので源氏物語とは関係ない。

  清水寺には、今年の五月に行ったばかりであるが、再びの訪れである。「鳥辺野」を確認したかったのだが、昼に飲んだ酒で足が重くなってしまった。「ちゃわん坂」で茶碗を見て戻ってしまった。ここも外国人と修学旅行生ばかり、五月の時と変わらぬほどの繁盛であった。浅草や清水寺は外国人には魅力なのであろう。
  結局さして熱心に清水を見ることもせず、京都駅に向かった。清少納言があんなに何度も熱心に清水寺に籠ったりしたというのに申し訳ない気がする。
  『清水などに参りて、坂もと上るほどに、柴たく香のいみじうあはれなるこそをかしけれ  229段』

  最後は、風俗博物館に行ったが、またまた休館であった。これで四度目の訪問だが、二度も休館日にぶつかってしまった。ここは「井筒呉服店」が経営しているようであるが、社長の趣味でやっているからであろう、あまり展示に熱心ではない。夏休みや冬休みをたっぷり取ったり、展示物の入れ替えと言っては、平気で一か月も二カ月も休む。
  ここの人形は実に精巧にできていて、源氏物語の世界を忠実に再現しているのだが、こう休みばかり多くては宝の持ち腐れで惜しい限りである。五月に来た時には、受付の人が人形を作っていて、長々と話し込むことができたのだが、休館では仕方がない。
  駅から乗ったタクシーの運転手もこの風俗博物館の場所さえ知らなかった。私の方が教えてあげた。いずれにしても源氏物語に興味を持っている人は一度は見ておくに値する施設である。

  京都は歴史・文化の宝庫であるばかりか、三方を山に囲まれその中を鴨川と桂川が豊かに水をたたえて流れるという自然にも恵まれている。北海道、東京に次いで「魅力ある都道府県」の三位にランクされているのはことわり(理)である。そういう地を源氏物語の跡を辿って歩けるという幸せを満喫できた旅であった。
  来年のクラス会は、源氏物語を中心としたものにしてしまおうかとも思っている。そして、薀蓄豊かな私が、処々で得々として源氏物語の講釈をするのだ。


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