源氏物語

源氏物語たより598

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     『懲りずまに』   源氏物語たより598

  光源氏は、夕顔という未だかつて経験したことのない女性に偶然巡り会う。彼女の「人となり」はと言えば、
  『いと浅ましくやはらかに、おほどきて』
いるところである。「やはらか」は「穏やかで従順」ということ、「おほどき」も同じようなニュアンスをもち「おおらかでおっとりしている」ということで、これこそが夕顔という女性のトレードマークなのである。源氏とすれば、彼女と一緒にいると心が慰められるのであろう、葵上や六条御息所といる時のように緊張を強いられることがない。肩肘張らずにとりとめのないことをいつまでもいつまでも話し続けていられるのだ。そのことを古歌を引用して
  『(いつまでも尽きることのないと言われる息長川の水がたとえ尽きたとしても)
君と語らふ言尽きめやも』
と言っている。だから
  『今朝の程(別れて、夕べにはまたすぐ会えるというのに)、昼間の隔てもおぼつかなく』
思うほど恋しくて、一瞬たりとも離れていられないのである。
  ところが、源氏の浅慮のためにこの女を突然失ってしまう。彼女を失った源氏の悲しみと悔恨は譬えようもない。その悲嘆のために憔悴しきってしまい、重く患ってしまう。
  一ケ月あまり患った後、ようやく回復するという有様である。

  例の空蝉は、源氏が患っていることを聞き、情の籠った消息をする。
  「御病気とは承っておりましたが、なかなか言葉に表して消息することもできず・・、でもどれほど心を乱し淋しい思いをしておりましたことか。この間、生きている甲斐もないほどの思いでおりました」
  これに対して源氏も、空蝉以上に情の籠った手紙を返す。
  そればかりではない、空蝉からの連想であろう、源氏は、彼女の義理の娘・軒端荻を思い出しこれにも消息をするのである。その内容は
  「私が死ぬほどあなたを思っているその心をご存じでいらっしゃるでしょうか。あなたは今度結婚されるということですが、私とあれほど深く契りを交わした仲ではありませんか。それなのに・・。私は何と言ってあなたを恨めばいいのでしょう」
という激烈な感情の迸ったものであった 軒端荻とは、空蝉に迫って行った時に、本命の空蝉は衣一枚を残して逃げてしまい、たまたま同じ部屋に後に残されていた女のことで、源氏が得意なあだ心を発揮して「この女も良し」と思って強引に契ってしまったあの女である。もちろん「死ぬほど思っている」などは真っ赤な空言で、別に心から愛しているわけではない。むしろその
  「嗜(たしな)みのなさ、落ち着きのない騒々しさ」
などを批判的に見ていたが、「でもこれもまた良しか」と思う程度の女で、源氏の女性の数にも入らない一人に過ぎない。そんな女にもこれほど情熱的な手紙を出すのである。

  さて、ここで疑問に思うことは、源氏があれほど愛し、一瞬たりとも離れられないとまで恋い焦がれていた夕顔を失ったばかりだというのに、これは一体どうしたことかということである。その死のために重く患い、つい昨日まで悲嘆にくれていたのではなかったのか。それなのにこのはしゃぎようは一体どういう根性なのだろう。あまりに冷淡過ぎるではないか。源氏とはそんなに薄情で不誠実な男だったのだろうか、と現代の我々には疑問に思われてならない。

  語り手はそういう源氏を揶揄するようにこう言っている。
  『なほ懲りずまに又もあだ名立ちぬべき、御心のすさびなめり』
  (やはり夕顔との辛い恋にも懲りずに、またまたあらぬ名が立ちかねない源氏の浮気心のようであるよ)
  この語り手の評の出所が、冒頭に挙げた古今集の恋の歌である。再掲しておこう。
 
  『懲りずまに又もなき名は立ちぬべし 人憎からぬ世にし住まへば』

  この歌の上の句は言葉の通りで、「浮気心のためにあらぬ名が立ったというのに、それに懲りもせずにまたまた恋をするとは。これでは再び芳しからぬ名が立ってしまうだろうに」という意味である。
  問題なのは下の句である。特に「人憎からぬ世」とはどういう意味であろうか。「憎からず」は「感じがよい」という意味なのだが。
これをほとんどの古今集の解説書は、
  「あなたのことを憎からず思っているのだから」
と訳している。つまりこの「人」を、愛する女性個人と捉えているのだ。たとえば『新潮日本古典集成(新潮社版)』はこうである。
  「無理もない、もともと憎からず思っている仲なのだから」
  もう一つ小学館の『日本古典文学全集』を見てみよう。
  「どうせあなたを憎からず思って毎日を暮している私なのだから」
  いずれも、この「人」を、歌の作者が愛している女性個人としているのだがそうだろうか。私にはそうではなく、もっと一般化された女性そのものを指しているように思えてならない。つまり
  「もともとこの世の人(女性)はみな感じの良い人ばかりなのだから」
ということで、そういう世に住んでいるので、懲りもせずに何度も恋をしてしまうのだ、という捉え方である。私の使っている『源氏物語評釈』(角川書店 玉上琢弥著)にはなんとこうあるではないか。
  「懲りもせずに、またしても無実の浮名が立つことになろうか。憎くはない人のいる、この世に住んでいるのだから」
  日ごろ、玉上琢弥の源氏物語の訳には不満を持っていた(特に『夕顔』の巻)のだが、ここでずばり私の考えと一致するとは思いもしないことであった。

  少なくとも光源氏の場合は、一人の女性を指してはいない。直前の軒端荻はどちらかと言えば源氏の目には「あはつけき」女性と映るのだが、それでも彼女なりの良さを持っている。そこに源氏が契りを交わす動機があったのである。もちろん、夕顔こそ、源氏にとっては最高の女性であったが、空蝉も容姿こそ劣るとはいえ、源氏の心を惹きつけるものを持っている。軒端荻然りである。
  我々読者には、光源氏という男はどうしてああも恋に身を削り、悩みを背負い込むのだろうかと疑問に思われるのだが、彼には彼なりの論理があったのだ。
  「この世には良い女が多いものでね」
ということである(もちろん源氏の女性遍歴の目的はこれだけではないが)。
  それに、この古今集の歌の本意も、この世には良い女が多いものだから、人の非難にも懲りずについ恋に陥ってしまうのだよ、と一般的なものとして捉えた方がおもしろいし、おおらかで嬉しくなる。

  実は先に上げた小学館の『日本古典文学全集』にはこんな頭注があるのである。
  「(この歌は)人を憎く思えない現世、(そういう)現世に住めば人を愛するのは宿命だという考え方である」
  これはとても面白い注で、「人」を「女性」のみならず、男女を問わず「人一般」に拡大して捉えてい。、こういう注に出会うと、人好きな私の心は浮き立ってくる。


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