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源氏物語

源氏物語たより599

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     夕顔の墓    源氏物語たより599

  玉上琢弥の『源氏物語評釈』(角川書店)に「夕顔の墓」が載っているのにはびっくりする。そればかりではない、「明石入道の碑」や「光源氏の愛人が住んだというところ」という写真まである。
  「夕顔の墓」は「京都市堺町通り松原上ル」にあるというので、観光案内書(JTBのエースガイド)で調べてみたら確かにあるある。五条通りと四条通りの中間に「夕顔塚」とあった。仏光寺の近くである。夕顔が死んだ九月十六日を「夕顔忌」として毎年、関係者が供養を続けているのだそうだ。江戸時代、源氏物語の好事家が建てたものらしいが、虚構が現実になってしまう可笑し味がおかしい。みな素直なのだ。
  もっともこの近くにある五条大橋の義経と弁慶の決闘像などはその代表で、誰も不審がらずににこにこ眺めて通って行く。少々おどけすぎていて真実味に欠ける像と思われるのだが、像の作者はあえてそうしたのかもしれない。あまりリアルに造ると現実と思ってしまう人がいるかもしれないから。
  紫野の大徳寺の近くに紫式部の墓があるが、これも眉唾である。彼女や清少納言などはその生没年さえはっきりしていないのだ。いくら現在有名であるといっても、当時女性の墓が造られたはずはない。紫式部の墓は、高さはそれほどでもないが規模は比較的大きい塚(長さ5メートルくらいか)の上にそれなりの五輪の塔が建てられているので、随分立派な墓に見える。
  そう言えば、最近、御所近くにある廬山寺が紫式部の邸宅と言われるようになったそうで、境内には「源氏の庭」まである。何か根拠があるのだろうがこれも怪しい。
  石山寺に「源氏の間」があるのは有名なことである。紫式部が源氏物語を執筆するに当たって、この部屋で琵琶湖に映る満月を眺めながら構想を練り、
  『月いとはなやかにさし出でたるに、「今宵は十五夜なりけり」と思し出でて・・』
の『須磨』の巻を書き始めたという。しかし、残念ながらこの「源氏の間」からは琵琶湖に映る月は見えないそうだ。

  『徒然草』に面白い話が載っている。そのまま載せてみよう。
  『ある者、小野道風の書ける和漢朗詠集とて持ちたりけるを、ある人「ご相伝、浮けること(根拠のないこと)には侍らじなれども、四条大納言撰ばれたる物を、道風書かんこと、時代や違ひ侍らん。おぼつかなく」と言ひければ、「さ候へぼこそ、世にありがたき物には侍りけれ」とて、いよいよ秘蔵しけり』
  小野道風とは、もちろん書道の達人(藤原行成、同佐理と並んで三蹟の一人)、あの柳と蛙の道風である。一方の「四条大納言」とは、藤原公任のことで、『和漢朗詠集』を撰した人物である。残念ながらこの二人は、生きた時代が百年近くも違う。後にできた『和漢朗詠集』を、先の世の道風が書くはずはない。
  こんな小咄もある。某神社に「頼朝のしゃれこうべ」というのが麗々しく飾ってあった。ある男、しげしげとこれを見ていたが、どうも頼朝のしゃれこうべにしては小さ過ぎる。そこで神主に不審を呈すると、神主、
  「頼朝の子供の時のしゃれこうべでござる」

  歴史上の史跡などというものは大体が怪しいものである。まして遥かな昔にできた天皇陵などは、ほとんどが眉唾である。そもそもあの仁徳天皇陵からして誰のものか分かっていないのだ。秋田書房の『歴代天皇総覧』に、日本学士院会員の末永雅雄という人がこんな話をしている。
  「敗戦直後、仁徳陵を公園に開放したいという堺市から宮内庁に申請があった」
  いくら戦後のどさくさとはいえ、日本最大の陵である仁徳陵を、その所在地である堺市が、「あそこを公園にしたい」と要望するというのだ。いかに天皇陵たるものをみな「怪しげなもの」と考えているかを証明していると言わざるを得ない。

  でも、景行天皇陵と言われれば、堀の際に座ってヤマトタケルを偲ぶことができるし、垂仁天皇陵と言われれば、その静かな佇まいに、しばし歴史の悠久に浸ることができる。
  その道の好事家とすれば、史跡と事実が一致していることが望ましいもので、源氏物語ファンにとっては、紫式部の墓もまた彼女の住居跡も事実であってほしい気はする。

  ところが、昨年、宇治に行ってみて驚いた。いささか行き過ぎではなかろうかと思うほどに、源氏物語の史跡で溢れかえっていたのだ。しかもみな最近できたばかりのもののような感じがする。
  まず宇治橋のたもとには、巨大な紫式部像ができていたし、中島から対岸に渡った宇治神社の近くには、匂宮と浮舟が抱き合わんばかりに睦んでいる姿の、これも巨大な像ができていた。
  とにかく、宇治神社から宇治上神社に至る道は、源氏物語のオンパレード、「総角の古蹟」やら「与謝野晶子が源氏物語を詠んだ歌五首」やら「源氏物語ミュウジアム」やら・・。
  橋のたもとには「橋姫」の小さな像があればそれでよい。匂宮と浮舟は、雪の夜の逃避行なのだから、目に見えない方がよい。そもそも「宇治十帖」は、源氏物語に結構慣れ親しんだ人でも知らない世界なのだから(なぜならここまで行き着かずに、読むのを辞めてしまう人が多いのだ)、「総角」と言っても分からないし、「中君」と言っても分からない。私も、源氏物語を読み始めた当初は「光源氏のいない源氏物語なんて・・」と思っていたものだ。宇治市にはもう少し配慮を求めたい。
  
  最後に雪の逃避行の場面を揚げておこう。
  『いとはかなげなるものと明け暮れ見出だす小さき舟に乗り給ひて、さし渡り給ふほど、はるかならん岸にしも、漕ぎ離れたらんやうに心細く思えて、つとつきて(匂宮に浮舟が)抱かれたるも、いとらうたしと思す。有明の月、澄み上りて、水の面も曇りなきに、「これなん橘の小島」と申して、御舟しばしさし止めたるを見給へば・・』


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