源氏物語

源氏物語たより604

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     この僧都いったい何者?  源氏物語たより604

  光源氏が北山で、聖の草庵に一泊することになった晩、例の垣間見した紫上の大叔父から、弟子を通して連絡があった。その口上が次のとおりである。
  『なにがし(私が)この寺にこもり侍りとは、(源氏さまは)しろしめしながら、忍びさせ給へるを、うれはしく思ひ給へてなむ』
  「私がこの寺にいることをご存じでいながら、こっそり忍んでお出でになるとは残念至極」ということで、「わが僧坊にこそお泊まり下さい」という誘いである。源氏は紫上のこともあるので、誘いに乗る。

  先ずは僧都が草庵に尋ねてくる。その時の印象を源氏はこう評している。
  『法師なれど、いと心恥づかしく、人柄もやむごとなく、世に思はれ給へる人なれば』
  「心恥づかし」とは、対面しているとこちらが恥ずかしくなるほど相手が立派に見えるという意味である。これは相手が「僧都」であるからということからくる印象ではなく、この法師個人から立派な印象を受けるということである。
  先に、源氏が山上から僧坊を見て、「誰が住んでいるのか」と供人に尋ねたところ、「なにがし僧都」と答えている。するとこの時も源氏は
  『心恥づかしき人、住むなる所にこそあなれ』
と言っていた。これは「僧都」という立派な位の方の住むところという意味と、源氏がもともと知っている立派な法師という二面で使われているように取れる。

  それにしても、最初の僧都の言葉がよく理解できない。いくら僧都が立派な位とはいえ、「光源氏」は、天皇の子であり時の人なのである。そんなお方に向かって言える言葉であろうか。
  「拙僧が山籠もりしているのをご存じでいながら・・」
とか
  「うれはしく思ひ給へてなん」
とは、この僧都、自分を何様と思っているのだろうか。
  それに一介の僧都が山籠もりをしていることを、なぜ源氏が知っていなければならないと言うのだろうか。まして若い源氏である、彼はいつも女性のことで頭がいっぱいで、一人の僧都の行動などを把握しているはずはないではないか。にもかかわらず
  「拙僧が・・」
と横柄にも高飛車にも、不平を唱えるとは、いったいこの僧都、何者なのであろうか。
 
  物語上ではその説明がない。紫上の出自については丁寧な説明がある。彼女は、藤壺宮の兄・兵部卿宮が、紫上の故母の所に通っていてできた子である。つまり紫上は藤壺宮の姪ということになる。ところが僧都の出自についての話は今後とも出てこない。恐らく朝廷や内裏にしばしば出入りする人物なのであろうが、得体がしれないままである。

  さてそれでは「僧都」とは、一体どういう位なのだろうか。僧都とは、「僧綱(僧尼を統領し法務を統轄する僧官)」のことで、664年に、僧正、僧都、法頭(後に律師)が設けられたことがその歴史の始まりである。随分古くからの僧侶の位なのだ。僧都は、僧正に次ぐというのだから、誠に高い位と言わなければならない。
  ところが、僧正、僧都、律師がそれぞれ何人いたのかになると、定かではない。元々はそれぞれ一人であったようであるが、時代とともにその数は急激に増加していったようで、僧正や僧都が何人も置かれるようになった。鎌倉時代の慈円(1155~1225)の著・『愚管抄』にはこうあるそうだ。
  『僧正は、故院の御時までも五人にはすぎざりき。当時、正僧正一度に五人いできて、十三人まであるにや、前僧正また十余人あるにそ』
  「正僧正」「前僧正」とあるのは、僧正がいろいろの階級に分かれてきたのであろう。ただ「大僧正」はあくまで一人であったようである。いずれにしても、僧正にしてこの始末である。まして僧都は
  「大僧都、権大僧都、僧都、少僧都、権少僧都」
という具合に華やかな階級分化を遂げたので、その数は杳として掴めない。鳥羽天皇(在位1107~1123)の時には、大僧都だけで、八人いたという。
                                                      (以上、『官職要解』 明治書院による)
  これでは有難味などひどく薄れてしまう。もし源氏物語の時代も、これに似た情況であったとすれば、源氏が「心恥づかし」と感じたのは、位についての評ではなく、「なにがし僧都」個人についてであると取らざるを得ない。
  『紫式部日記』の、彰子中宮が初めてのお子(後の後一条天皇)をお産する時の記事には、僧正や僧都がぞろぞろ出て来る。九月十日の記事に、
  『やむごとなき僧正、僧都かさなりゐて(声を嗄らして祈祷をしている)』
 という記事が見える。これによれば、僧正、僧都は大勢いたということになるのだが。ただ、そうなると、今度は、清少納言の『枕草子 186段』の記述とはずいぶん乖離(かいり)してしまうのも事実である。それは「位こそなほ(やはり)めでたきものはあれ」の文章で、そこには、
  『(法師でも、内供奉程度の者では、お経がうまく、どんなに美麗な顔だちの僧であっても、せいぜい女房たちに軽く見られるのが関の山。それに比べて)僧都、僧正になりぬれば、仏の現はれ給へるやうに、(人々が)おぢまどひ、かしこまるさま、何にか似たる』
とあるのだ。僧都、僧正ともなれば生き仏が現れたようなもので、人々が恐れ敬うさまは、他に比べようがないというのだ。この文章で見る限り、平安中期には、その数はきわめて少なかったと、取れなくもない。
  というわけで、どうも僧正や僧都の人数については、正確な実態は把握できない。いつどのように変化していったのか知りたいところである。

  ところで、「僧都」で有名なのが『往生要集』の著者・恵心僧都源信(942~1017)であろう。彼は朝廷から僧都の位を授かったというのに、母の
  「お前を僧にしたのは、高い位に就いて、高位高官の方々と接することができるようにすることではない」
という言葉に痛く感じ入って、翌年にはその位を返してしまっている。「僧都」という位は偉いには違いないのだから、見上げた行為というもので、誰にもできる芸当ではない。
  この恵心源信をモデルにしていると言われるのが、「宇治十帖」で、浮舟を迷いの道から救い出し、出家・安寧の境地に導いたあの「横川の僧都」である。横川の僧都は、確かに自由奔放、ものにこだわらない人である。恵心源信とは違って、朝廷にも平気で赴いて、明石中宮の加持・祈祷をするかと思えば、一介の娘(浮舟)の加持・祈祷をもしてあげる。挙句には、得体も知れないこの浮舟の出家の後見までして、自らその髪を切っている。そればかりか碁は大の得意であり、山籠もり中でも必要とあらば、さっさと山を下りて来る。春風駘蕩としてとどまるところを知らない人物である。

  そこにいくと、源氏物語の「なにがし僧都」は、あまり特色がない。後に源氏から紫上所望の申し出があった時も、おたおたするだけで、明確に自分の意志を表そうとはしていない。妹尼(紫上の祖母)に任せっぱなしである。それに彼の出自もはっきりしないままである。妹尼の夫が按察使大納言だったというから、それなりの家柄なのであろうが、その説明がない。
  紫上が宮様の子であることで十分とはいえ、後に、明石君の父・母の出自の良さについては、執拗なほどその出自の良さを強調するのだから、この僧都もそうすべきではなかったか。なぜなら紫上自体、明石君に変わらないほどに崩壊家庭であったのだから。
  また、この後にも、彼は物語上さしたる活躍をしていない。源氏が二度にわたって「心恥づかし」と評価している人物なのだからもっと登場してきていいはずである。なにしろ、後に自分の姪の子(紫上)が、源氏の妻になっているのだから。それなのに『若菜下』の巻に、お情け程度に彼の死についてわずかに触れられているだけである。
  それに何より驚くことは、紫上が源氏によって拉致され、行方知れずになった時に、彼はまったく動きを見せなかったことである。姪の子供だから関係ないといえばそれまでだが、横川の僧都だったら、山からさっさと下りてきて、あちこち探し回ったかもしれない。そしてすぐさま源氏の元にいることを突き止めたはずである。
  あるいは彼は権威にこだわる平凡な僧都であったのではあるまいか。源氏という時の人が「我が僧坊に泊まってくれること」は、後々の立身出世のため、と考えたのかもしれない。また、この翌日、源氏のことを「優曇華の花(三千年に一度しか咲かない)」と褒めあげたり、源氏を迎えに来た若き公達どもの「遊び」の時に、わざわざ僧坊に取りに行った琴を源氏に差し出して、「一曲、所望」などと言っている。いかにも源氏に諂っているようで、浅ましい。そもそも源氏は病上がりなのである。
  少なくともこの「なにがしの僧都は、横川の僧都とはずいぶん差がある。


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