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源氏物語

源氏物語たより605

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     伏線考     源氏物語たより605

  源氏物語には、伏線が縦横無尽に張り巡らされている。壮大なものから、それと気づかないような小さなものまで、執拗なほどの伏線である。
  それではどうしてこれほど神経質なまでに伏線に拘ったのだろうか。
  その最大の目的は、物語に必然性を持たせるということにあったのではなかろうかと思う。自然な筋の展開を紫式部ほど心掛けた作家はいないからである。それは
  「この物語は従来の物語とは一線を画すものである」
という彼女の強い自負から出ているのではないだろうか。従来の読み物のように突然や偶然の連続する奇想天外な物語ではないということである。あくまでもこの現実の世にごく当たり前のように起こっている様々な事象を紡いでいった結果であるということである。
  したがって、その内容は、奇をてらった女・子供の慰み物から脱し、実生活や歴史と不即不離のものになり、結果的に、身分高く教養豊かな人々も、十分に味わうに足るものになったのだ。しかも、そこには人生の真実がちりばめられているから、読者をして深く考えさせ、また何度読んでも味があるという優れた読み物となったのである。
  彼女が物語を創作するに当たって、最も配慮したのは、物語に自然な流れを持たせることではなかったろうか。
  
  私は、紫式部は、何人かの友と文学愛好のサロンを形成していたのではなかろうか、といつも思っている。彼女たちは互いに作品を持ち寄り、評価し批判し合っていたに違いない。
  「ここのところは、いささか唐突過ぎはしません」
  「これでは奇想天外すぎて、今までの怪奇物語となんら変わりありませんわ」
などと忌憚なく意見を出し合った。特に筋に自然さを欠いているところはないか、あるいは矛盾がないかなどが批判の対象になったはずである。紫式部はそういう批判を受けることを一番嫌ったと思う。その結果、あれほど伏線を多用するということつながったのだ。
  このサロンは、紫式部が、夫・藤原宣孝に死に別れた後のこと、そして宮仕えをする以前のことであったろう。
  こうして、このサロンで肯定され評価されたものが、次第に世に出て評判になっていった。そしてその評判はやがて時の人・藤原道真の耳に入り、彰子中宮の所に出仕するきっかけとなった。道真とすれば、皇后・定子側には、例の清少納言を中心とした強力な文学サロンがあったことに対して、彰子側にもそれが必要と考えたに違いない。
  源氏物語は、紫式部が彰子中宮の元に出仕する以前から内裏でも評判になっていたと思われる。これについては『紫式部日記』の藤原公任の
  『あなかしこ、このわたりにわかむらさきや、さぶらふ』
の冗談が証明しているところである。公任のような一流文化人ですら、源氏物語を夢中になって読んでいたのだ。公任のみならず、一条天皇も彼女の博識には舌を巻いている。とにかく、彼女は古今東西の文学や歴史書など、すべての分野にわたって、物語創作に必要と思われることは自家薬籠中のものにして、それを何の無理も矛盾もな実に巧みに物語の中に生かし切っていった。それが大の男たちを感動させ、呆れてさせたというわけである。
  それらの評価の多くは、彼女の博学のみならず、緊密な物語の構成にあったと思われる。源氏物語はどこを押しても矛盾や無理や唐突さや偶然が見つからないのである。全体が実にスムースに流れている。
  空蝉との邂逅も夕顔の死も突然のようであって、そうではない。しかるべき根拠によって、その邂逅があり、死がある。

  さて、ここでは壮大な二つの伏線について見ていってみようと思う。
  一つは、『若紫』の巻における供人たちの「明石」の話である。わらは病治療のために加持・祈祷をしてもらう合間を縫って、光源氏は供人とともに北山の山の上から、はるかなる眼下を覗く。京ではもうとうに終わってしまった桜が、ここでは、まだ盛りで、源氏はその風光にすっかり感動してしまって、
  『はるかに霞みわたりて、四方の木ずゑ、そこはかとなうけぶりわたれるほど、絵にいとよくも似たるかな』
と感嘆の声を発する。すると、供人はそれを聞き逃さない。
  「いやいや、このくらいの景色は大したことはありません。諸国には、海や山や、素晴らしいところがいくらでもあります。それらをご覧になれば、源氏様の絵の力量もいかばかり優れたものになりますことやら・・」
 
  そして、かつて父が播磨守であった良清が
  『近き所には、播磨の明石の浦こそ、なほ殊に侍れ。なにのいたり深き隈はなけれど、ただ、海の面を見渡したるほどなむ、あやしくこと所に似ず、ゆほびか(ゆったりとしておだやか)なる所に侍る』
と自慢し始める。そして明石の浦の風光のみならず、そこに住む世のひが者の明石入道のこと、さらには入道が痛くかしずくという明石君のことにまで話は及んでいく。源氏は明石入道とその娘のことには
  『ただならず、おぼしたり。かやうにてもなべてならず、もて僻みたること、好み給ふ御心なれば、御耳とどまらむをや』
のである。「もて僻みたること」とは、風変わりなことということで、源氏はちょっとでも変わったことには必ず耳を鋭く立てる本性を持つ。父親が、自分の娘に向かって、理想的な結婚ができなければ、
  「海の中に入ってしまえ」
などと突飛なことを言う人物に耳を留めぬはずはない。「をや」の感動語が皮肉に効いている。
  しかし、いくら「もて僻みたること」を好む源氏だと言っても、しょせん明石などは彼にとって無関係な僻地に過ぎず、北山での一場の笑い話でしかない。この時、源氏は正三位中将。今上の信任と寵愛は厚く、将来は洋々たるもので、明石などとは無縁な身分なのである。

  ところが、なんとこの八年後、須磨に流離し、そこで須磨の浦の絵を描くようになろうとは。さらには良清が自慢話にしていた明石君と結婚するようになろうとは、供人の誰もが想像もしなかったことであるし、読者もまた同じである。
  八年後に、明石の話が生きてくるとは、まことに壮大な伏線と言わなければならない。
  ただ、ここで我々はつい「八年先のことまで構想していたとは、驚くべきこと・・」と感動してしまいがちであるが、必ずしも紫式部は八年の時を掛けて、須磨・明石の物語を創作したわけではない。『若紫』の巻で、既に、あるいは同時に須磨や明石のことを頭の中で構想していたはずである。我々は物語上の問題を、つい現実と混同してしまう。
  もう一つ問題なのは、当時、『伊勢物語』のような「貴種流離」の話が人口に膾炙していたということである。それは、物語の一つのパターンになっていたので、北山での明石の話を貴種流離と結びつけて読んでいた者もあったかもしれない。『須磨』の巻に至って「やっぱり!」と思った読者も少なくなかったのではなかろうか。その点では、この伏線はある程度割り引いて考えなければならないだろう。
  それにしても、この伏線が、やがては源氏と明石君との間に生まれた娘(明石姫君)が、東宮妃となり、さらには中宮にまで繋がって行くのだから、やはり「壮大なる伏線」と言わざるを得まい。

  もう一つの壮大な伏線は『若菜下』の巻にある。これは伏線と言うのが正しいのかどうかは疑わしくさえあるのだが。
  女楽の後、紫上の体調は優れず、いかに加持・祈祷をしても、
  『しるしも見えず、(病が)重しと見れど、おのづから怠る(病が軽くなる)けぢめあるは頼もしきを、(少しも元のようには回復しないので、源氏は)いみじく心細く悲しと見たてまつり給ふに、他事思されねば・・』
という具合に深刻な病になってしまった。
  同じような病状のまま二月も過ぎていく。源氏の嘆きはこの上ない。そこで、彼はこう判断し決断する。
   『試みに所を変へ給はむ、とて、二条院にわたし奉り給ひつ』
  現在のまま六条院にいるよりも、二条院に転地療養をした方がよいと判断したのである。そのために
   『(六条)院の内の人々は、みなある限り二条院に集ひ参りて、この(六条)院には、火を消ちたるやうに』
なってしまった。
  紫上がいたればこその六条院の賑いであり活気であったのだ。その中心人物が移ってしまったのだ。おかげで、六条院は「火の消えた」ような寂しさで、残っているのは、女三宮お付きの「あはつけき」女房ばかりである。当然のごとく源氏自身も
  『(女三)宮の御方にもあからさまにもわたり給うはず』
という結果になってしまった。「あからさまに」とは、「少しも」ということで、ほんなわずかな時間すら源氏は、女三宮の所には渡って行かなくなってしまったのである。

  と、この直後、即、衛門督(柏木)が登場してくるのである。なんというタイミングのよさであろうか。この転地療養は、柏木と女三宮が問題を起こすための情況作りで、あまりに意図的に過ぎはしないか、と批判されかねない危うさがある。
  しかし、これに対して紫式部は、用心深く周到に伏線を張っている。それは七年前のことである。源氏の四十の賀が紫上の主催で開催されたことがあった。その賀の精進落としを紫上はあえて二条院で行ったのである。六条院で行うのが筋であるにもかかわらず。
  ではなぜそうしたのであろうか。それは二条院こそ
  『わが御わたくしの殿と思す』
からである。二条院は紫上にとっては「我が邸」なのである。十歳の時に、源氏に有無を言う間もなく連れて来られて以来、彼女はここで育ちここで生活してきた。いいこともあったし、悲しいこともあった。源氏の膝下、十七年にわたって喜怒哀楽を共にしてきたのが、二条院であった。
  六条院も、十二年の長きにわたって紫上が実質上の女主として過ごしてはいる。だから、愛着も深かったであろうが、しかし女三宮の降嫁以来、紫上にとっては心休まる所ではなくなっていた。病んだ紫上が心の落ち着く場所、精神的な安穏を得る場はここ二条院しかないのである。したがって、源氏が「二条院へ」と判断したのは正解である。まさかその隙に柏木と女三宮が不倫を行おうとは考えもしない。このチャンスを持っていたのは柏木だけである。
  したがって、七年前の源氏四十の賀の
  『わが御わたくしの殿と思す』
という言葉は、重大な意味を持つ伏線だったのである。
  さらにこの四年後、紫上が最期を迎える時にもこの言葉が再び登場する。
  『年ごろわたくしの御願にて、書かせたてまつり給ひける法華経千部、急ぎて供養じ給ふ。我が御殿と思す二条の院にてぞし給ひける』
  やはり二条院は紫上にとっては我が故郷であり、わが命だったのである。壮大・豪壮・華麗な六条院は彼女の住むところではなくなっていた。
  七年前に伏線を敷き、四年後にそれを補足するように再登場させる。
 
  私は、こういう文章作法を、「後付け伏線」と勝手に名付けている。源氏物語にはこれが案外多いのである。一つだけ例を上げておこう。『夕顔』の巻にある。  
  源氏が、五条の大路に車を止めていた時に、見入れの程もない屋敷の切りかけ塀に、白い花が咲いているのを目にして「何の花だろう」と思って、
  『「をちかた人にもの申す」とひとりごち給ふ』
のである。あの時の源氏の「ひとりごち給ふ」声が、屋敷の女房たちに聞こえたからこそ、その屋敷の主が
  『心あてにそれかとぞ見る 白露の光添へたる夕顔の花」
の歌を返してきたのだ。「心あてに」の歌が、返歌であることを誰も指摘しようとしないことを私は不思議で仕方なく思っている。おそらくそれは五条の大路で「ひとりごつ」声が、屋敷の中まで聞こえるはずはないと、思っているからではなかろうか。
  そうではない、光源氏の声は「迦陵頻伽」の誠に透き通る美しい声なのである。だから屋敷の中にも聞こえないはずはないのである。にもかかわらず多くの人は
  「女から男に歌を詠みかけるなどありえないこと。この夕顔という女はなんと蓮っ葉な女であろう」
と非難するのである。そうではない、夕顔は源氏の「をちかた人に」という呼びかけに応えたのである。
  それに、「源氏の声が屋敷の中まで聞こえた」ことを証明する重大な証拠が、この後に出てくるのである。それは夕顔の屋敷で過ごしたある明け方のこと、源氏の枕元に、大路で話し合う庶民の声が明瞭に聞こえてくる場面である。そればかりか、御嶽精進をする老い人の読経の声まで聞こえてきているのだ。
  これこそが「後付け伏線」で、まして源氏の「ひとりごつ」声は屋敷の女房たちに朗々と聞こえた有力な証拠になるのである。
伏線は必ずしも前にあるだけではない。後に付けて事実をより強力に補足し証明づけるという働きもする。

  今回は、大きな伏線について考えてみたが、いずれ、それと気づかないような非常に細かな、細心な配慮のもとに立てられている伏線についても考えて行ってみようと思っている。


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