源氏物語

源氏物語たより608

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     留め置かまし我が魂を   源氏物語たより608

  以前、光源氏が須磨に退去する時に、「(京を)出で給ふ」と書きながら、容易に京を離れず、何度も「出で給ふ」を繰り返すという文章作法があることを書いたことがある(たより258 「帰ったの まだ居たの」)。須磨に早く退去しなければならないことは理性では分かっているのに、感情が許さない。そこで京にしがみついていたいという気持ちを、「出た」と記述しながら源氏に京のあちらこちらを逡巡させるという行動を取らせたのである。

  このような時に、人はしばしば「身体は仕方がないが、でも心(魂)だけはこの場に残しておきたい」と思ったりするものである。これは平安人に限らず、現代の我々にもよくあることだ。恋しい人あるいは素晴らしい風光などに接して、やがてその場を離れなければならない時などには、「ああ、魂だけでもここに残しておきたいもの」と思ったりする経験をしたことがあるのではなかろうか。

  『末摘花』の巻の冒頭は、
  『思へどもなほ飽かざりし夕顔の露におくれしほどの心地を、年月ふれどおぼし忘れず』
である。地の文であるというのに、完全に五音、七音を用いて和歌形式を取っている。思いもかけず露のようにはかなくなってしまった夕顔に対する源氏の心情が、自ずから和歌形式となって迸(ほとばし)り出たものと考えられる。
  ところで、この冒頭の「思へども」は、古今集から引いたものであると、中世の源氏物語の解説書(細流抄)にあるそうである(角川書店 玉上琢弥著 『源氏物語評釈』による)。その歌は
  『思へども身をし分けねば 目に見えぬ心を君にたぐえてぞやる』
で、前書きには「東国地方に下った人に読んで贈った歌」とある。意味は、
  「自分の体を二つに分けることはできないけれども、心だけはあなたと一緒に東国まで連れ添わせていただきたい」
というものである。
  この歌の主旨は、源氏の心情とはやや離れてはいるが、夕顔が亡くなった時のことを思えば、まさにこの歌の通りだったと言えるのではなかろうか。惟光が、夕顔の死骸を東山に送った後、源氏はどうしてももう一度その死骸に会いたいと駄々をこねる。惟光は、仕方なく源氏を東山に赴かせる。そこで見た夕顔の姿は
  『いとらうたげなるさまして、まだいささか、変りたるところなし』
であった。源氏は思わずこう漏らす。
  『我が身こそは、え生きとまるまじき心地すれ』
  自分の身も夕顔とともにあの世に行ってしまいそうであると言う意味である。先の古今集の歌のように、源氏も魂はもうこの世にはなく、夕顔に連れ添っているということであろう。何しろ、夕顔は、源氏が今まで全く知らなかったタイプの女性である。鷹揚で素直であどけなく、それでいて品がある。そんな夕顔を源氏は今も
  『けぢかくなつかしかりしあはれに、似るものなう恋しく思え給ふ』
のである。このように見て来ると、冒頭の文章は、まさに古今集の「思へども」に依ったものということが分かり、源氏の方がさらに「身を分けて夕顔の所に」と思う気持ちは深刻である。

  この「身を分く」、「魂を留める」が顕著に表れるのが、『柏木』の巻である。源氏の正妻・女三宮と過ちを犯してしまった柏木は、その密通を源氏に知られるところとなり、彼のひと睨みによって、明日をもしれぬ身となってしまう。彼の親である致仕の太政大臣(かつての頭中将)はひどく悲しみ、多くの修験者などを呼びよせては祈祷させる。その結果、験者や陰陽師たちは、柏木の身に「女の霊がついている」と占い出す。それを聞いた柏木は、女三宮との仲を取り持った小侍従に向かってこう言う。
  『さる御執の、身に添ひたるならば、いとはしき身もひきかへ、やんごとなくこそなりぬべけれ』
  「女三宮の執念が自分の身についているというのなら、かえって厭わしいわが身は尊くなるというもの」と自分勝手に解釈してしまう。つまり物の怪でもなんでもいい、女三宮の魂が、彼女の身を離れて自分に付くというのなら、そんな嬉しいことはない、と言うのだから、もう処置なしである。でも心から愛する人の霊が、自分についているということになれば、柏木ならずとももろ手を挙げて嬉しく思うに違いない。
  さらに彼はこう続ける
  「源氏のひと睨みによって、私の魂は自分の身に帰らなくなってしまった。もし六条院(源氏の住まい)に私の魂が彷徨っているならば、ぜひその魂を引きとどめておいてほしい」
  また、小侍従から、女三宮もここのところ、もの思いのためにすっかり面痩せてしまったという話を聞くと、
  『げに、(自分の)あくがるる魂や、(女三宮の所に)行き通ふらん』
と、またまた勝手な思い込みをするのである。
  そこで、女三宮に歌を贈る。と、彼女から次のような返歌がある。
  「あなたは死んでしまうと おっしゃいますが、私とてあなたに遅れて生きていることなどありましょうか」
 それに対して彼はさらにこう応えて贈る。
  『行方なき空の煙となりぬとも 思ふあたりをたちは離れじ』
  「思ふあたり」とは、もちろん女三宮のそばということで、たとえ身は死して煙になったとしても、あなたのそばを離れることはありませんということで、死んでもこの魂はあなたから離れないぞと言うのだから、悲壮な執念というしかない。これを妄執と言ってしまっては柏木に可哀想であろう。これほど真剣な恋をすれば、魂はどう彷徨うか計り知れないのだから。

  この魂が身から離れ出るという話は、源氏物語のいたるところに見ることができる。最後に一つだけ加えておこう。柏木の未亡人・落葉宮に心底恋してしまった夕霧は盛んに結婚を迫る。しかし、柏木との結婚に心身を痛めつけられている落葉宮は、夕霧の求婚をてんから許そうとしない。そんな冷淡な宮に夕霧はこんな歌を贈る。
   『魂をつれなき袖に留め置きて 我が心から惑はるるかな』
   (冷淡なあなたの袖に私の魂を留め置いてきてしまったために、もぬけの殻になってしまった私は茫然自失、自分の責任からとはいえ、これからどうしたらよいのか何の考えも浮かびません)
  柏木ほどの深刻な状況にあるわけではないが、そででもやはり一歩誤れば夕霧もどうなることやら。
 
  古今集にもこの類の歌は多い。凡河内躬恒の歌。
  『身を捨ててゆきやしにけむ 思ふより外なるものは心なりけり』
  これは、躬恒が、ある人を長らく訪ねないでいたところ、たまたまその人と会ってしまって恨み言を言われ、その弁解をしたものである。
  「いやいや、心というものは自分の思うようにはいかないものでしてね」と言って誤魔化す。柏木や夕霧などとはレベルが違うが、その軽いジョークが面白い。もう一つ、陸奥の歌。
  『飽かざりし袖の中にや入りにけむ 我が魂のなき心地する』
  これは、女友達と長々話し込んでいて、まだまだ話し足りない時の歌である。「私の魂はあなたの袖の中に入ってしまったのでしょうか。何かぼおっとしていますわ」
  これも躬恒の歌同様、随分ふざけた歌で、可笑しい。
  平安人は、命にかかわるような深刻な時につけ、旧知や友人との軽い冗談の時につけ、やたら「魂」を取り出すのが好きだったようである。
  
 [補 二題] 

   男に忘れられてしまった時の和泉式部の歌
     『もの思へば  沢の蛍もわが身よりあくがれ出づる魂(たま)かとぞ見る』
   吉田松陰の辞世の句
     『身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも 留め置かまし大和魂』


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