源氏物語

源氏物語たより623

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  性の場面はなぜ描かれない   源氏物語たより623

   このテーマについては既に「たより24」で述べたところで、重複する内容があるかもしれないが、別の観点から述べてみることにする。
   源氏物語において、男女の睦み(これを“実事”と言うそうで、歌舞伎の“和事”からきているようである)の場面は上げるに暇がないほどある。特に光源氏の若い時にはその話がもっぱらである。
   ところが、不思議なことに、恋の話は溢れるほどあっても性交渉が直接描かれる場面は一か所もない。これは一体どういうことであろうか。恋に性はつきものなのではなかろうか。
  それでは三つばかり例を挙げながらこのテーマに迫ってみようと思う。
 
  まず初めに上げなければならないのは、空蝉との実事であろう。紀伊守の邸に方違えに行った夜、たまたまそこに方違えに来ていた伊予介の妻・空蝉の部屋に強引に入り込んだ源氏は、彼女と実事に及んでしまう。しかし、彼が空蝉と性的交渉を持ったのかどうか、定かなところは文章の上から知るのは困難である。鈍い読者などには二人の間に何が起こったのか、さっぱりつかむことができないのではないだろうか。これには「古語」の問題も含まれるのでややこしい。
  夫ある身の空蝉は、源氏の求愛を必死に拒む。彼女は
  『あるまじきことと思へば、あさましく、「人違へにこそ侍るめれ」と』
  必死に抵抗するのだが、衾(夜具)が口をふさいでしまって声にならない。源氏は彼女を抱きかかえて自分の部屋に連れて行き、甘い言葉を並べて恋の成就に奮闘する。そして次の肝心な記述になる。空蝉が泣いている姿が「あはれ」ではあるのだが、それでも源氏にとっては、
  『見ざらましば口惜しからまし』
ということになるのである。これは一体どういうことであろうか。「見ざらましかば」とはおかしいではないか。なぜなら源氏は、今現在、直接空蝉を目で見ているのだから。古語に疎い者にとっては、この情況を理解するのは困難なことである。実はこの「見る」が曲者なのである。これには、ものを「見る」、人に「会う、対面する」と言う意味以外に、「男が女に会う、夫婦の契りをする、結婚する」という意味もあるのである。特にこの場合は、空蝉と男女の関係を持つこと、つまり性的交渉を持つことを意味しているのだ。
強引に犯されてしまった空蝉は、源氏に泣き言を訴えつつ、最後にこう言う。
  『よし、今は、「見き」となかけそ』
  「な~そ」は禁止を表す語で、「どうか口にかけないで下さい」という意味になる。全体では、「もうこうなった以上は仕方がございません。でもどうか“見た”とは言わないでください」ということになる。この場合の「見き」は、まさか空蝉が「私と性的関係を持ったとは言わないで下さい」とは言うはずはないのだが、実際上はその意味が含まれているのである。いずれにしても性的な営みは激しくなされたのだろうが、それを「見る」の中にすべて籠めてしまっているのである。

  二つ目に藤壺宮との逢瀬に触れよう。源氏は前後三度、藤壺宮と逢瀬を持っている。ところが、最初の逢瀬については、全く物語に描かれることがない。ただ
  『宮も、あさましかりしを思し出づるだに、世と共の御もの思ひなるを』
とあるだけなのである。この表現で、読者は「ああ、“あさましかりし(とんでもない)”ことが二人の間に過去にあったのだな、それは性的関係を持ったということであろう」と想像し納得するしかないのである。
  二度目の逢瀬でも、二人が性的交渉を持ったのは明らかなのだが、それをこと細かに綿々と描くことは決してしない。せっかく逢えた夜だというのに、残念ながらの短夜で、あっという間に夜は明けてしまう、とあるだけなのである。したがって、これも読者は二人の閨の情況について想像を逞しくするしかないのである。ただ二十回も源氏物語を読んでいると、この場面にはぞくぞくするほどの官能を覚えないではいられない。
  それは二人が詠み交わした歌にあるようである。まず源氏の歌から見てみよう。
  『見てもまた逢ふ夜まれなる 夢のうちにやがてまぎるるわが身ともがな』
  ここにも「見る」が使われている。
  「せっかくこうしてお逢いし感動の一夜を共にしたことができても、今度はいつ逢えるともわかりません。だったら、一層のことこの夢のような官能の最中にそのまま消えてしまう我が身であればいいのに」
という意味で、絶望的な肉体の歓喜の中で死んでしまいたいというのだ。すさまじいばかりの男女の愛の地獄と言うしかない。
  これに対して宮はこう応える。
  『世語りに人や伝へん たぐひなく憂き身をさめぬ夢になしても』
  「あなたはこの夢の中に消えてしまいたいとおっしゃる。私も同じようにこの夢の中で消えてしまうとしても、世間の人はどれほど二人の噂をすることでしょうか。それを思うと何とも辛い身と言わざるを得ませんわ。いくらこの夢が醒めないとしても」
という意味になろうか。 恐らくまだ閨の中で互いの体をまさぐりながら詠んだ歌であるはずだ。二人とも体のほてりを覚えながらのものと思われ、禁断の愛に身を任すしかない、しかし二人の憂愁と苦悩のなんと重いことか。
  この後二人の仲を取り持った王命婦が
  『命婦の君ぞ、(源氏の)御直衣などは、搔き集めもて来たる』
のだが、「御直衣など」が可笑しい。この中にはもちろん袴も単衣も入っていて、源氏は裸同然であることが分かる。ここにも性の行為が見て取れる。

  三つ目の例は、紫上との初めての性についてである。葵上の四十九日の喪が明けて、源氏は久しぶりに二条院に帰って来る。彼の目に紫上は
  『なにごともあらまほしう整ひ果てて、いとめでたうのみ見え給ふを、似げなからぬ程にはた見なし給へれば』
とすっかり成熟して映った。「似げなからぬ程」とは、もう性的な関係を持ってもいい具合になっているということである。実は源氏が彼女を二条院に連れて来てから既に四年が経過している。しかしこの間、源氏は、彼女と閨を共にしては来たものの、一度とさて男女の関係を結んではいない。ところが今見る紫上はすっかり成長していて、そうすることに相応しい女性になっていたのだ。
  そこで彼はあれこれ性的な話を訴えかけるのだが、彼女は全く気付かぬ素振りばかりしている。
  この記述で「ああ、今夜二人の間で何ごとかが起こるのだな」と気づく。しかし、物語ではそれをあからさまに言うことなく、場面は翌朝になってしまって、ただこうあるだけなのだ。
  『をとこ君は疾く起き給ひて、女君はさらに起き給はぬ朝あり』
  この記述で、先のこととかねあわせ「あ、ついに!」と思うわけなのだが、うっかり者だと、何のことやらさっぱり分からず、「どうして一緒に起きなかったのだろう・・」などと暢気に構えているかもしれない。

   源氏物語は、すべからくこのように性の場面を赤裸に描くことはしない。夕顔もそうだし朧月夜も明石君も女三宮もみなそうなのである。それはなぜなのだろうか。
  おそらく「性行為」というものが「あはれ」とは無縁であるからではなかろうかと思う。「あはれ」は「しみじみとした情感」のことである。性には「しみじみ」がなく、ひたすら絶対的な歓喜そのものがあるにすぎない。
  恋も同じことである。恋が成就して、無事に結婚でき、幸せな生活ができたとしても、第三者には何の面白味もない。平安無事や幸せそのものは物語の埒外にある。だから、光源氏の恋はすべて苦しくわりない恋ばかりなのである。彼の恋は変化して止まない恋なので、それは桜は散るから「あはれ」があって面白いのと同じだ。
  なかなか逢えない恋に悩み、また心変わりするかもしれない相手への不安におののき、いつ相手との別れが訪れるかわからない、そういう「不定」な世界であるからこそ恋は面白いのだ。それに、性行為は二人だけの歓喜の問題であって、それ自体に物語性はない。
  紫式部が源氏物語を通して訴えたかったのは、変化する人の心であり人の運命である。ただ性の快感に二人が酔い痴れるというのでは、そのことをいくら綿密詳細に描写しても、興覚めで鼻白むだけである。



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