源氏物語

源氏物語たより624

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     一つの解釈の間違いが   源氏物語たより624

 夕顔が頓死してしまった後、六条の廃院に彼女に付き添って行った女房の右近を、光源氏は二条院に引き取り世話をする。九月のある夜、右近を呼んで夕顔の素性などについて聞き出す。夕顔は最後まで
  『海士の子なれば』
と言って、その素性を明かさなかったからである。右近は、この夜、初めてその秘密を語る。源氏が夕顔の屋敷を訪れる時、いつも顔を覆っていて、身分も何も隠していたからであると、次のように語り始める。  
  『はじめより(源氏の)あやしうおぼえぬ様なりし御ことなれば、「うつつともおぼえずなんある」と(夕顔が)の給ひて、「(源氏の)御名隠しも、さばかりにこそは」と聞こえ給ひながら、(源氏は夕顔に対して)なほざりにこそ、まぎらはし給ふらめ」となん、憂きことに思したり』
  「源氏さまが名をお名乗りにならないのは、それなりの身分上の事情がおありになるからだろう。いずれにしても名を隠すということは、自分(夕顔)をいい加減にあしらっていられることでは、と思われて、夕顔さまも名を隠し通していたのです」
という意味である

  さて、ここにある「さばかりにこそは」の意味についてであるが、不可解なことには、玉上琢弥著『源氏物語評解』(角川酒店)も『日本の古典』(小学館)も同じように
  「おおかた源氏の君でいらっしゃるからに違いない」
と訳しているのだ(『日本古典文学大系』(岩波書店)も同じ)。いずれも最初から、夕顔の屋敷の者たちは、男が顔を隠してはいるが、「源氏の君」と分かっていたというのだ。これは全くあり得ないことである。あくまでも「さばかり」であって、ここには「光源氏」という意は含まれていない。「名を隠さなければならない何か(身分上など)の事情」ということである。屋敷の者たちは、通って来る男が誰であるか具体的には一切分かっていないのである。
  その証拠はいたるところにあるのに、国文学者たちはそれを見落としている。
 
  『夕顔』の巻末は、女主が消えてしまった夕顔の屋敷に焦点があてられる。そこで彼女たちは、主がいなくなってしまったことについて、あれやこれやと想像を繰り広げる。惟光を疑ってみたりもするが、惟光はしらを切っているので、定かなことは分からない。そこで彼女たちはこういう考えに思い至る。
  『もし(かすると)、受領の子供のすきずきしきが、頭の君(頭中将のこと、夕顔は頭中将の北の方の圧迫で姿を消した)におぢ聞こえて、やがて(任国にそのまま)ゐて下りたるにやとぞ思ひよりける』
  「思ひよりける」とは、彼女たちはいろいろ想像を巡らしてみたのだが、結局「受領の息子の仕業」と結論付けたということである。
  実はこの直前にも先ほどの「さばかりにや」と言う表現があって、ここでも角川書店も小学館も岩波書店も、性懲りもなく無分別に
  「源氏の君くらいではなかろうか」
としている。いくらなんでもそれはあり得ないことである。夕顔の屋敷の連中が雁首揃えて「顔を隠した男」の身元をいくら推理しても、結局誰とも分からずにいるのである。そして彼女たちは
  「好色な受領の息子あたりが、父の任国に連れて行ってしまったのだろう」
と最終判断を下したのである。世に光り輝く「光源氏様」を、受領の息子風情と決めつけていいはずはない。要するに、彼女たちは、男の正体は誰なのかは全く分かっていないということである。そもそも、あの源氏さまが、受領の息子程度に推し量られてしまったとなれば、源氏さまも形無しで、あまりに「哀れ」ではないか。
  こんな単純なことに、源氏物語の大家たちがどうして気付かなかったのだろう。

  それは他でもない、『夕顔』の巻の冒頭の解釈を間違えてしまったがためである。これに関してはもう飽きるほど述べてきたことであるが、大事なことなので、煩雑を畏れず再掲しておこう。 
  『心あてにそれかとぞ見る 白露のひかり添へたる夕顔の花』
の解釈である。この歌の「それ」をみな「源氏さま」と見てしまった大過ちから全てはスタートしているのである。この歌は、夕顔が自ら率先して源氏に詠いかけたものではない。五条の大路に車を止めて、物見窓から顔をのぞかせ、
  『うち渡す をちかた人にもの申す我 そのそこに咲けるは何の花ぞも』
と、美しく一人ごちている貴公子の声を、耳ざとく聞きつけた女房が、女主に御注進に及び、女主は「心あてにそれかとぞ見る・・」と応えてきたのである。この歌には「源氏」を指すものは何もない。恐らく国文学者たちは「ひかり」という言葉に幻惑されてしまったのだろう。
  源氏が、夕顔の屋敷に通うようになってしばらくすると、顔を隠していても
  『人の御けはひ、はた、手さぐりにもしるきわざなりければ』
と、手触りでも「高貴な男」と知れるようになる。「受領風情の息子」ではとてもこうはいかない。

  この巻の冒頭の歌の解釈の過ちは、いたるところに及んでしまっている。
 
 夕顔の屋敷があまりにも手狭で、往来の庶民の話し声が、源氏の枕元まで聞こえてきてしまう有様である。困じ果てた源氏は、「静かな所で何時までも睦まじく・・」と、ついに夕顔を六条の廃院に連れ出す。この時の女房たちの反応が
  『このある人々(女房たち)も、かかる(源氏の)御心ざしのおろかならぬを見知れば、おぼめかし(気がかりに思い)ながら、(源氏に)頼みかけ聞こえたり』
なのである。夕顔(彼女たち)には、男が誰かは分かってはいないものの、手探りでも高貴な身分の方であるとだけは分かるのである。女主がどこかへ連れ出されるのは気がかりではあるが、それでも高貴な雰囲気を漂わせている男に、一縷の期待(立派な後見)を彼女たちはかけてもいるのである。
  このことに対して、玉上琢弥は、麗々しくもこう注釈している。やや冗長だが、そのまま抜粋しておこう。
  「女の周囲の人々は、その一生を、この女主人にかけている。唯一の頼みである女君に通う男が、どれほどの人とも知れないのに、女君を手放すことがあるだろうか。現実にはありえないことであった。作者は、読者の疑問に答えざるをえない。そのために、この節末の三行(『このある人々も、かかる御こころざしのおろかならぬを見知れば、おぼめかしながら頼みかけ聞こえたり』)があるのだけれども、誠に説得不十分である。夕顔の巻には、こうした不十分さがある。ありうべからざることを平気で語った、昔物語になれて、反省が不十分なのである。この作者は後になると、こんな無理な運びはしない」
  何とも偏見と独断に満ちた講釈ではないか。そもそも玉上琢弥は、巻の冒頭の「それかとぞ見る」を「光源氏さま」と訳しているのである。つまり女たちは、車の物見窓から顔を出してこちらを覗いている男を、当初から「光源氏!」と喝破したとしているのである。にもかかわらず、ここにきて「どれほどの人とも知れない」と前言を翻してしまうとはあまりの厚顔無恥。自分の解釈の「不十分さを」、「昔物語に慣れてしまっている紫式部のあさはかさ」に帰してしまうのだから。それにしても、世界の大作家に対して「反省が不十分」とはよくも言えたものである。

  冒頭の解釈の間違いは他にも及んでいる。
  六条の廃院で、源氏は顔の隠しを解き身分を明かす。その時に、夕顔にこう歌を詠み掛ける。
  『夕露に紐解く花は玉ぼこのたよりと見えしえにこそありけれ・・露の光やいかに』
  掛詞があったり枕詞があったりして極めて難しい歌なので、少し解説を付けておこう。「紐解く」とは夕顔の「花が開く」と源氏が「初めて顔を見せる」ことを掛けている。「玉ぼこ」は道の枕詞、五条の大路で出会ったことを指す。「え」は「縁」でゆかり。全体の意味は、
  「こうして夕べの露に花が開いて顔をお見せするのも、あの通りすがりの道でお逢いしたご縁によるものだったのですね。・・露の光りはいかがご覧になりますか(小学館より)」
となる。これに対して夕顔はこう応える。
  『光ありと見し夕顔のうは露は 黄昏時のそら目なりけり』
  「そら目」とは「見間違い」という意である。
  源氏の歌も夕顔の歌も、いずれも巻冒頭の「心あてに」の歌を受けているのだが、この「そら目」が問題なのである。いずれの解説書も
  「あの時は光ある方とお見受けしましたけれども、黄昏時なもので判然とは見えなかったための見間違いでございした。今こうしてお見うけしますと、別に大してことはありません」
と訳している。岩波書店などは
  「実は(源氏さまは)美しいのだが、かえって反対に、多少は源氏に戯れる気持ちで言う。かなりうち解けている」
とご丁寧に注釈している。角川書店も同じように解説している。
  しかし、いくらうち解けたとはいえ、世にもなきような光源氏さまに向かって「大したお顔ではありませんでした」などと言うだろうか。夕顔は
  「無暗に臆病でいらっしゃる御性分(右近の言葉)」
なのである。そうではなく、この歌は、
  「誰もあまり注視もしない夕顔の花に、光りを添えてくださいました、などと生意気なことを申しあげてしまって・・あれは黄昏時の、ものの文目も分からないための間違いでございました。夕顔の露に光りを添えるどころではございません。とてもとても比べるものが無いほどに・・」
という控えめな褒め歌なのである。それでこそ、「あさましいほど“やはらか”で、“おほどき”」たる夕顔に相応しい歌となるのである。また、だからこそ源氏が魂を抜かれるほどに惚れ込んでしまったのだ。
  これも、偏に最初の歌の解釈の過ちからきたものである。「心あてに」の歌を、「女から男に詠み掛けたもの」と多く学者が解釈しているが、これも大きな誤りである。そんな解釈をするから、「夕顔という女は娼婦では・・」と言うような、とんでもない名訳まで出てきてしまうのだ。
  一つの誤解が、後々まで影響を及ぼし、とんでもない偏見まで呼び起こしてしまう、怖いことである。
  玉上琢弥は、『夕顔』の巻を悉くけなしているが、それは彼の解釈の誤りからきているもので、私は、この巻は源氏物語の中でも極めて緊密・綿密にできた物語で、それゆえに面白い巻であると評価している。


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