源氏物語

源氏物語たより627

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      『末摘花』の巻 笑いの限界  源氏物語たより627


  『末摘花』の巻は、喜劇仕立てで書かれているのだが素直に笑えない、ということは何度か指摘してきた(「たより609など」)。なぜなのだろうか。
  まず第一に、筋に無理があることがあげられよう。光源氏が、末摘花と逢うようになったのは、彼の乳母子である大輔命婦の紹介に依る。彼女は乳母子という気安さもあって、源氏とは非常に親密で、冗談や皮肉も対等に言いあえる。ある時、源氏の色好みを煽るべく、自分が日ごろ行き通っている末摘花をこう紹介する。
  「常陸宮様が大層大切に育てていられた姫君で、琴を特に好まれる」
  これが源氏を煽る彼女の殺し文句であった。なぜなら「宮様の娘」なら源氏は申し分なしと思うだろう、さらに「琴を殊に好む」と言えば、源氏の食指は必ず動くはずと読んだのだ。案の定、源氏は「その琴を我に聴かせよ」と乗り気になる。
  でも、命婦はこうも付け加える。
  『心ばへ・かたち(容貌)など、深き方はえ知り侍らず』
  ここにもう無理が潜んでいる。彼女は、父親の再婚相手の家に行くのは気が進まないので、もっぱら末摘花の家に通っているとある。しかもそこに、自分の局さえ持っているのだ。それなのに「心ばへ」も「かたち」も知らないと言う。確かに当時、女房などがご主人と話す時などは、御簾越し・几帳越しだったようである。しかし、後で分かるように、末摘花のあの容姿や話下手などは、何回か応対しているうちに、自ずから分かってくるはずだ。それほどに末摘花は独特なのだ。特に背高であり鼻高であり、さらに極端なもの怖じであるのだから、「分からない」というのがむしろ不自然である。

  例の雪の日に、源氏は、末摘花の醜悪な容貌を完膚なきまでに見てしまう。そればかりか、彼女が着ていた衣が「貂の皮衣」であったことも、源氏はひどくその非常識を嘲っている。しかし、それは貧困ゆえであろう。いくら寒いからと言っても愛する男に逢うのに黒貂の衣を着る女はいない。この間、源氏は何度か末摘花を訪ねているのだ。正式に通い妻にしたというのに、なぜその貧困状態が分からなかったのだろうか。なぜ、経済的な援助をしてやらなかったのだろうか。源氏の援助があれば、末摘花は「容姿の嘲り」だけで済んだはずなのに。

  彼女の所作・動作・行動、言葉などもあまりに常識外れで極端すぎる。男に話しかけられて何も応えられず、ただ「む、む」と言うだけという。あまりの「しじま」に源氏は呆れるのだが、いくらなんでもこれは無理な人物設定と言わざるを得ない。
  正月に源氏用にと、末摘花が贈った衣装も、あまりにひどい。
  『今様色の、え許すまじく艶なう、古めきたる直衣の、裏表等しう、こまやかなる、いとなほなほしう、つまづま見えたる』
  「紅梅色のどうにも見られぬほど艶もなく、古めいた直衣の、裏と表と同じくらい濃い色のが、何の趣もなくありふれたさまに褄々の端をのぞかせている。 (円地文子訳『新潮社』)」
代物であった。「艶なく古めかしい」のは、単に彼女にセンスがないということよりも、やはり彼女の貧困ゆえで、それしかなかったのだろう。あるいは彼女が源氏のためにと必死で縫ったのかもしれないのだ。これも源氏の十分な援助があれば蔑まれないで済んだというのに。しかも源氏はこの直衣を見てこんな歌を詠うのである。
   『なつかしき色ともなしに なににこの末摘花を袖に触れけん』
   「なつかし」とは心惹かれるということで、全体は、
  「何の魅力もない女だというのに、どうして手を触れて(関係を持って)しまったのだろう」
という意味である。歌の中の「色」は、末摘花の鼻が赤いことを指している。贈られて来た直衣も「濃い紅色」で、それはベニバナの「赤で染めた色」を指している。全てが末摘花の「鼻の赤さ」に由来しているのだから徹底している。ちなみに「袖」は、衣にちなんだ縁語である。
  源氏の歌を見た大輔命婦は、内心こう思っている。
  『をりをりの月影などを、いとほしきものから、をかしう思ひなりぬ』
  命婦は、やはり月の光で末摘花の鼻を見ていたのだ。しかも「をりをり」なのである。そして源氏と一緒に「可哀想だけど」と思いつつ嘲笑っている。

  源氏の揶揄、嘲笑、侮蔑はまだ止まない。二条院で紫上と絵などを描いて遊んでいる時に、源氏は、髪の大層長い女の絵を描き、その鼻に紅を塗る。それだけなら許されるのだが、彼は自分の鼻にまで紅を塗り、それを紫上に見せてこう言う。
  『まろが、かくかたはになりなん時、いかならん』
  何も知らない純真無垢な紫上を前にして、末摘花の「かたは」な醜貌を嘲笑っているのだから、もう救いようがない。
  源氏物語では光源氏を徹底して褒めちぎっている。しかし、『末摘花』の巻では、源氏の醜い面が出てしまった。これでは前代未聞の美貌の持ち主、天賦の才の持ち主と崇め奉って来た光源氏も、人間的には「かたは」なのかもしれないと言われかねない。

  『末摘花』の巻が読むにしたがって息苦しくなってくるのも、そんなところに理由があるのかもしれない。それは一度読んだだけではわからない。最初は「赤鼻の女」「むむとしか言えない女」など面白く感じないでもないが、何度か読むうちに、その人格無視、女性蔑視などが鼻に付いてきてしまって、素直に笑ってはいられなくなる。西郷信綱はこの巻を「滑稽譚の傑作」と言っているが、彼はおそらく一回しか読んでいないのだろう。例の玉上琢弥はこう言っている。
  「これは光る源氏の“恋愛滑稽譚”、“恋愛失敗譚”である。作者は面白く書こうと努力している。だからある程度は面白い。しかし、私は、この巻をユーモア文学の傑作だと言う人の気が知れない。偉大な作家は悲劇も喜劇も描けるのだ、と、言う人も不思議に思う。なるほど作者はおかしく書こうとしている。しかしともすれば読者は末摘花にあわれを感じてしまう。作者はすぐそんな書きぶりをしてしまう。また、この最後の場面(紫上を絵を書く場面)のように、末摘花を笑いものにしてしまうと、それがあまりに強すぎて、かえって、また末摘花に同情してしまう。いずれにしても作者は喜劇を書ける女(ひと)ではない」
  文章はいささか交錯していて整理されていないが、概ねのところで私もそう思う。特に「ユーモア文学の傑作」などとは全く思わない。しかし、この巻は玉上が言うような光源氏の恋愛滑稽譚でもないし恋愛失敗譚でもない。もしそれだったら、笑って済ますことができるからである。むしろ読んでいて、生理的な嫌悪感をすら覚えてしまうのは、この巻が人間拒否、人格否定、女性蔑視にのっとったものになっているからである。
  もう一つ言えば、「いずれにしても作者は喜劇を書ける女ではない」という玉上の断定である。そんなことはない。源氏物語には滑稽な表現や場面が至る所にちりばめられている。玉上は、『源氏物語評釈』の中で実に懇切丁寧な説明を展開しているが、滑稽な場面に気付かないことが多い。お堅い学者の常なのかもしれない。
  次回『紅葉賀』の巻に登場する「源典侍」にその点を見てみよう。これは素直に面白く笑える。


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