FC2ブログ

スポンサー広告

スポンサーサイト

 ←源氏物語あより629 →源氏物語たより631
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。


もくじ  3kaku_s_L.png 未分類
もくじ  3kaku_s_L.png 郷愁
もくじ  3kaku_s_L.png 源氏
もくじ  3kaku_s_L.png 源氏物語
  • 【源氏物語あより629】へ
  • 【源氏物語たより631】へ
  • TB(-)|
  • CO(-) 
  • Edit
 

源氏物語

源氏物語たより630

 ←源氏物語あより629 →源氏物語たより631
     「洒落」好きな日本人   源氏物語たより630

  「洒落」とは、『広辞苑』によれば「気のきいたさま、いきなさま」ということで、「洒落を言う」の洒落は、「座興に言う気のきいた文句、ことばの同音を生かしていう地口」ということになる。『旺文社 全訳古語辞典』には前者を「あか抜けた言動をすること」としている。したがって「洒落を言う」の洒落は、「気がきいていて、あか抜けていなければならない」ということになる。そうでないのはいわゆる「駄洒落」でしかないということだ。
  いずれにしても、洒落を言うことによってその場の緊張がほぐれ、和やかな雰囲気を醸し出すことができる。
  古代から日本人にとってはこの洒落が必需品であったようで、『古事記』や『竹取物語』などにも盛んに使われている。竹取物語の最後などはその典型で、かぐや姫が残して行った「不死」の薬を持って、天に最も近いという駿河の山に行き、その頂に登って焼いた。それ以降、
  『その山をふじの山とは名づけける。その煙いまだ雲の中へ立ち上るとぞ言い伝えたる』
とある。とにかく竹取物語などは洒落のてんこ盛りというところである。
  「掛詞」も同音を響かせて言う洒落で、多くは歌などに使われている。『古今集』なども、掛詞(洒落)の殿堂と言っていい。恐らく彼らは、
  「気のきいた掛詞を使った名歌ができたわい」
などと悦に入ってにんまりしていたのだろう。またそれを互いに笑い合ったり「お見事、お見事!」などと囃し立てたりしていたに違いない。

  これが日本人の伝統となり、脈々と受け継がれてきた。特に江戸時代は洒落全盛時代で、十辺舎一九の『東海道中膝栗毛』や式亭三馬の『浮世風呂』は、洒落は雨後の竹の子である。 
  弥冶さん・喜多さんが、「中山(現在は三島市内)」あたりを旅している時に、街道を大勢の女衆が歩いているのに気が付いた喜多さん、白い手ぬぐいを被れば一層男前に見えるはずと、懐からさらしの手ぬぐいを取り出し、頬被りする。案の定、街道の女衆は喜多さんの顔を覗き込んでは、にやにやしている。彼はいい気になるのだが、実は彼の手ぬぐいには紐が垂れていてそれを笑っていたのだ。なんと手ぬぐいとばかり思っていたのは褌であった。弥冶さんに冷やかされた喜多さん
  『手ぬぐひと思ふて被る褌は さてこそ恥をさらしなりけり』
  洒落の集大成が「江戸小咄」と言っていいかもしれない。もちろん江戸小咄のジャンルは多様で、歴史にのっとったものや、ことわざや艶笑もの、あるいはお惚(とぼ)けものなど様々である。が、やはりその中心になっているのが「洒落」であるように思われる。ただ江戸小咄の洒落は、洒落は洒落でもあか抜けたものが多い。そんな江戸小咄のうちの三つばかりを紹介しておこう。

  千手観音様の前で、参詣に来た男が何やらぶつぶつ言っている。
  「観音さま・・、観音さまはお手が千本もあるというのに、足はどうして二本しかないのですか?」
すると観音様、ぼそりと
  「御足が足りない」

  ある宿に、お日様とお月様と雷様がお泊りになった。翌朝、雷様が目を覚ますと、お日様もお月様もいられない。番頭さんを呼んで聞いてみると「お日さまとお月さまは、今朝早くお立になりました」とのこと。と、雷様
  「月日の経つのは早いものよのう」
  今度は番頭さんが、「雷様はいつお立ちになります?」と聞く。暫く考えた雷様
  「そうよのう、夕立にするか」
 
  いずれも見事な洒落と言わざるを得ないが、特に後者は洒落の二段構えで見事。
  それでは最後は可愛い話を紹介しよう。

  江戸の大店の台所に鼠が出て仕方がないということで、ある時、丁稚ドンが「落とし升」を仕掛けた。翌朝みると、見事に鼠がかかっていた。升の外に鼠のしっぽが出ている。そこで、番頭さんやおさんドンを呼んで、
  「見て、見て、この尻尾からすると随分でかい鼠だよ」
と大はしゃぎ、ところが番頭さんは
  「いや、ちいさい、ちいさい」
すると、中から鼠が
  「チュウ」

  単なる駄洒落かもしれないが、何か単純にして可愛いく、「粋の域」に入っていると言ってもいいだろう。
  ところが、この話を以前職場でしたところ、職場の仲間がこれを盗用した。
  「昔々、おじいさんが山に柴刈りに行きました。お昼時になったので、おばあさんが作ってくれたおむすびの入った竹の皮を開いてみると、なんとおむすびが、ころり、ころりと転がり、深い穴の中に入ってしまいました。おじいさんが穴の中を覗いて見ると、中から賑やかな声がします。と、おじいさんも穴の中へすとーん。
  そこには鼠たちが大勢いて、「おじいさん、おむすびありがとう」と言って、大層歓待してくれました。楽しいひと時を過ごしたおじいさん、いよいよ帰らなければなりません。そこでこう言いました。
  「鼠さんたち、今日は本当に楽しい時をありがとう。またおむすびをもって来るからね。今度は大きいのが好いかね、それとも小さいのが好いかね」
 すると鼠たち、口をそろえて
  「チュウ」
  盗用されたのにはいささか原辰徳だが、「おむすびころりん」と「浦島太郎」の話を可愛くミックスしたようで、「おお、これもなかなかの粋に達しているわい」と許してあげることにした。
  ついでに、歴史やことわざにのっとったもの、お惚(とぼ)けもの、あるいは艶笑ものを、それぞれ一つずつあげておこう。
 
  ある絵師、絵が売れないでその日の暮らしにも事欠く始末。せんかたなく質屋に家財を入れては飢えをしのいでいた。しかしもう部屋の中には質に出すものとてない。仕方がないので、これだけはと思っていた床の間の師匠に書いてもらった天神様の絵を出すことにした。彼は天神様に手を合わせて、こう哀願する。
  「天神さま、申し訳ございません、一時質屋にいていただけませんか」
  すると天神様、涙を浮かべながら
  「わしゃ、また流される」

  蛸が岸壁で、気持ちよく居眠りをしていたところ、猫に腕を一本食われてしまった。頭に来た蛸、
  「よし、猫め、今度は海の中に引きずり込んでやる」
とばかり、岸壁に足七本を長々広げて待っていた。その様子を遠くから見ていた猫、
  「その手は食わねえ」
 
  両国橋で毎夜のように身投げが頻発。怒ったお奉行様に呼ばれてこってりお説教をされた橋番、「何とかとっ捕まえてやる」と勢い込む。とその晩、若い娘が草履を脱ぐや欄干に手をかけた。橋番、すっ飛んで行って、羽交い絞めにするや
  「毎晩毎晩、ここから飛び込んでいるのはお前だな!」

  ある泥棒、大名屋敷に盗みに入ると、お女中が縁側で足をツン出して昼寝の真最中。それではことのついでにと言うことで、お女中に馬乗りになって、始めてしまった。さすがに気付いたお女中、「あれ!」と思って見上げて見ると、この泥棒なかなかの好い男。泥棒が匕首の方に手をやって「騒ぐと抜くぞ」と脅すと、お女中
  「いや、ぬかないで」

  洒落でないものも交じってしまったが、とにかく江戸小咄は、「あかぬけていて粋」であることに間違いはない。しかし、歴史やことわざを知らないと理解できないものも多い。先の「天神様」は菅原道真のことで、彼の太宰府配流の史実が本になっている。

  洒落の伝統は現代にも繋がっているようで、昨日、TBSラジオの伊集院光の番組を聞いていたら、東海道五十三次の宿に関する「洒落」をやっていた。「戸塚」の宿に関する視聴者から募った洒落であったが、すべて駄洒落で聞くに堪えなかった。現代人の洒落の感覚は錆びついてしまったのだろうか。
  そもそも東海道五十三次の宿を詠った歌は江戸時代にもあって、TBSとは比べものにならないほど高尚で教養満載である。
  この歌は、寛政時代、寺子屋の手習いとして使われていたものだという。全てを上げてみたいのだが、いささか長くなるので、三島で止めておこう。
  「 都路は五十路(いそじ)あまりに三つの宿  時得て咲くは江戸の花 
   波静かなる品川や  やがて越え来る川崎の  軒端並ぶる神奈川は   はや保土ヶ谷のほどもなく
   暮れて戸塚に宿るらむ  紫匂う藤沢の   野面(のもせ)に続く平塚も  もとよりあはれは大磯か  
   かはず鳴くなる小田原は  箱根を越えて伊豆の海  三島の里の神垣や・・」
  洒落でまとめているわけではないが、各宿場の特徴を端的に捉えていて感心する。お気づきのことと思うが、すべて尻取り形式で次の宿へと繋がっている。これが寺子の習字や地理の学習教材になっていたのだから、江戸人の教養の高さを偲ぶことができる。
  戸塚は江戸から40キロ超、多くの人が最初に泊まる宿だったらしい。先の弥冶さん喜多さんも一泊目は戸塚である(二泊目は小田原)。
  それにしても江戸を早朝六時に出たとすれば、戸塚に着くのは午後四時ごろ。十時間も四十キロを歩き通したのだから、当時の人の健脚には驚くしかない。
  大磯の「あはれ」は、恐らく西行の
  『心なき身にもあはれは知られけり 鴫立つ沢の秋の夕暮』
にちなんだものであろう。それでは、小田原の「かはず鳴くなる」とはどういうことだろうか。私も分からないでいたが、最近、小田原に「蛙石」という史跡があることを知った。恐らく小田原には「蛙」にちなむ話があるのだろう。三島の「神垣」は勿論三島大社を指している。
  この後には、「浜松枝の時久し」などが出て来る。「浜松」の松を取って松の命長さを洒落て紹介しているのだ。

  こんなことを考えていたら、柳亭痴楽の「綴り方教室」を思い出した。その中の「恋の山手線」が、東海道五十三次に似ているのに気付いた。
  「上野を後に池袋 走る電車は内回り 私は近頃外回り 
   彼女はきれいな鶯芸者  日暮里笑ったあの笑窪  田畑を売っても命がけ  思うはあの子のことばかり 
   我が胸のうち駒込と  愛の巣鴨に伝えたい  おおつかなびっくり度胸を定め  彼女に会いに池袋  行けば男が目白押し
   そんな娘じゃだめだよと  高田馬場や新大久保の叔父さんの意見でも   新宿聞いてはいられません・・」
  ただし、これは徹底した駄洒落で、東海道五十三次の歌のように意味があるわけではない。「大塚」を「おおつかなびっくり」とは恐れ入る。また「新大久保の叔父さん」などは全く洒落にもなっていないし、相当な無理算段である。
  この後にも無理な語呂合わせが頻発する。たとえば、「親父が生きてゝ目黒いうちは 私も少しは豪胆(五反田)だ」とか、「魂(田町)も宙に踊るよな」などは、もう無理の極みである。
  それでも「日暮里笑ったあの笑窪」や「我が胸の内駒込と」や「愛の巣鴨に」などはなかなかうまく恋の真実をまとめていて、さすがではある。それに、この「恋の山手線」の最後がいい。
  「やがて消えゆく恋でした」
  「やがて」は「山手」をかけている。痴楽のあの軽快な語り口に、「意味ない・・」とは思いつつも、つい魅かれて覚えてしまう。
  また後に出て来る「色よい返事を浜松町」や「誰に悩みを有楽町」などは、なかなかのできで、百人一首にある三条右大臣や小式部内侍の歌に通じるものがある。
  まず三条右大臣の歌はこうだ。
  『名にしおはば逢坂山のさねかづら 人に知られで来るよしもがな』
  「逢坂山」は、男と女が「逢う」ということを掛けている。「さねかづら」は、つる性の灌木で、枝が別れてはまた会うと言う。これも男と女が「逢う」ことを意味している。そればかりではない。「さね」には「さあ、寝よう」という意味まで含まれていて、共寝を暗示しているという複雑にしてエッチな内容も含んでいる。
  小式部内侍は、和泉式部の娘で、母・和泉式部が丹後の守である夫に従って都を去ってしまった時に、歌会が催され、小式部内侍も歌人の一人に選ばれる。ある男が
  「お母さんがいないので心配でしょう、丹後には行きましたか、お母さんに手紙は出しましたか」
と言う。稀代の歌人である母の助けがなければ、あなたには歌会は無理だという皮肉を込めたのである。それに対して返した歌が、
  『大江山 いく野の道の遠ければ まだふみも見ず天の橋立』
である。「丹後は、大江山を越え険しい生野の道を通って行かなければならないので、まだ行ったこともありませんし、母からの文もいただいてはいません」という意味である。「生野」に「行く」を掛け、さらに「ふみ」に「踏む」と「文」を掛けたもので、彼女の当意即妙の才が現れていて、軽妙洒脱な歌である。

  「色よい返事を浜松町」の「松」は、古典でしばしば使われる「待つ」を掛けたもので、百人一首にも「まつとし聞かば いま帰り来む」がある。「逢坂山」や「生野」と同じように上手く地名を生かしている。
  「誰に悩みを有楽町」の「有楽町」は、「有楽町で逢いましょう」のように、男と女が逢う場所であり、そして別れるところでもある。最初の出会いの時や別れの時は言葉に詰まってしまって「言うべき言葉」を失ってしまい、まさに「誰に悩みを有楽町」の心境であろう。「さね」や「ふみ」に通じると言っていい。
  それに、この「恋の山手線」は、恋の始まりの心の高鳴りや忍従、それがやがては流れ落ちる滝のような激情となり、そして、恋の苦しみ・疑いあるいは自虐となり、道化たように終わっていく、全体の構成も巧みにできている。一見意味のないような「駄洒落」「御無体はこじつけ」と思っていた「恋の山手線」も、仔細に見ていけば、案外日本人の伝統を踏襲しているところが見つかるものである。

  さて、源氏物語にも触れなければなるまい。源氏物語でも掛詞は頻用されている。多くは歌の中で使われていて、最初の歌もそうだ。桐壷更衣が自らの命の尽きる間際に、帝にこう詠いかける。
  『限りとて別るゝ道の哀しきに いかまほしきは命なりけり』
  「死ぬこと、別れることは人に定められた宿命で、悲しいことではありますが仕方がございませんが、それでも私が行きたいのは命(生きる)の方でございます」という切実絶望的な心境を詠ったものだ。「まほし」は願望を表す助動詞で、「いかまほし」は、「行くたい」と「生きたい」とが掛けられていて、彼女の必死の思いが迸る言葉である。
  源氏物語では、地の文にも時に掛詞が使われる。
  ただし、源氏物語の特徴は、掛詞よりも「引き歌」にあるといえるだろう。玉上琢哉によれば、730箇所で使われてるというし、人によっては、2千箇所を超えると言う。それらの古歌や催馬楽が実に効果的に使われている。古歌で詠われた状況や情景を、源氏物語の状況や情景にオーバーラップさせる(掛ける)ことによって、より深い味や広がりを生もうとする技法である。
  六条御息所は、光源氏のつれない扱いに見切りをつけて、斎宮である娘と共に伊勢に下向することにしたが、それでも源氏への未練や世間の噂を思うと、きっぱり都を離れてしまう決心が付かない。そこであれやこれやと思い悩むのだが、そんな心境を
  『釣りする海士のうけなれや』
と表現している。これは古今集の次の歌から引いたものである。
  『伊勢の海に釣りする海士のうけなれや 心一つを定めかねつる』
  「うけ」とは、釣り具の「うき」のことで、うきは海面に漂って一瞬として安定しない。それはまさに御息所の現在の心境そのものである。しかもこの歌に歌われている場所は、「伊勢」で、彼女がこれから旅立とうとする地である。これ以外はないというほど適切な歌をよくぞ見つけて来たものだと感心する。これだけでも紫式部の非凡を認めないわけにはいかない。
  しかもここの地の文には掛詞まで使っているのだから、念が入ったものである。
  『(都を離れるか否か、心定まらないで)起き臥し思しわづらふけにや、御心地も浮きたるやうに思されて、悩ましうし給ふ』
  この「浮きたる」が伊勢の海士の釣りする「うけ」に掛けられているのだ。
  源氏物語の引き歌や掛詞については、今までも何度か触れたのでこの程度にするが、日本人の「洒落」の精神が、古事記や竹取物語や源氏物語、あるいは江戸の滑稽本や小咄に受け継がれ、さらに現代にまで引き継がれているのだと思うと、何か日本人として誇らしいように感じられ、思わず「日暮里笑ったあの笑窪」が出てきてしまう。


もくじ  3kaku_s_L.png 未分類
もくじ  3kaku_s_L.png 郷愁
もくじ  3kaku_s_L.png 源氏
もくじ  3kaku_s_L.png 源氏物語
  • 【源氏物語あより629】へ
  • 【源氏物語たより631】へ
 

~ Comment ~

管理者のみ表示。 | 非公開コメント投稿可能です。

~ Trackback ~

トラックバックURL


この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)

  • 【源氏物語あより629】へ
  • 【源氏物語たより631】へ
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。