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源氏物語

「あひ見ての後の心」ゆえの嘘 源氏物語たより640

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     「あひ見ての後の心」ゆえの嘘   源氏物語たより640

  百人一首に、権中納言藤原敦忠の次の歌がある。
  『あひ見ての後の心にくらぶれば 昔は物を思はざりけり』
  この歌の「見(て)」も、例の「男女が契りを結ぶ」意に使われていて、今、手元にある三冊の百人一首の解説書のいずれを見てもその意で訳している。ちくま学芸文庫の「解説 百人一首」(橋本武著)などはさらにご丁寧に
  「もともと、この歌がプラトニック・ラブを詠じたものとは受け取れない以上、体験以前の恋情は真の恋情とは言えないということを詠じているのだから」
と付け加えている。
  歌の意味は、橋本武の付け加えに尽きているが、あえて更に意訳すれば、
  「肉体関係で結ばれた後の恋情というものは、それ以前とは比較にならないほど真剣でそして激しく熱く燃え上がるものだ。と同時に、将来への不安や相手への嫉妬など諸々のもの思いも湧き出て来て、今までも恋のもの思いに悩まされてはきたが、しかしそんなものは、今の苦しさに比べたらものの数にも入りはしない」
ということになろう。肉体関係を結ぶということは、それほどに男を変えてしまうもののようである。

  私は、源氏物語の『葵』の巻の、光源氏と紫上との新手枕の場面に差し掛かるたびに、この歌を思い出す。葵上の四十九日の喪が明けて、久しぶりに二条院に帰って紫上を見ると、すっかり成熟した女になっている。愛しさに堪えかねた源氏は、その翌晩、初めて契りを結ぶ。一緒に暮らすようになってから実に四年後のことである。今まで、二人は毎晩のように閨を共にしてきたが、しかし肉体関係を持つことはなかった。源氏の自制でもあり、彼女が幼すぎもしたからだ。
  二人はこの間、毎日のようにあい見、あい語り、あい遊んできたのだ。そんな紫上であるから、彼女への源氏の愛情は限りないものであった。どんなに女遊びをしてきても鮎が故郷に帰るように、紫上の所に戻ってきては心慰められてきた。このように二人は偽りのない純粋な愛情で結ばれてはいた。
  ところが、この晩を境にして彼の紫上に対する感情は
  『年ごろあはれと思ひ聞こえつるは、かたはしにもあらざりけり。人の心こそうたてあるものはあれ。今は一夜も隔てむことのわりなかるべき事と思さる』
と、どんでん返しするほどに変化してしまった。
  「長い年月紫上を愛おしく思っていたことなど、今の狂おしいほどの愛おしさに比べれば「かたはし(ほんのわずか)」にも入らない、今は一晩でもそばにいないと耐えられない、人の心と言うものは不思議なもの」
という感慨で、冒頭の歌の心と全く同じである。
  紫式部は歴史や古歌や古典、あるいは催馬楽などをしばしば典拠として物語を創作している。ついうっかり読み進めてしまうのだが、この場面も頭書の敦忠の歌(拾遺集)を典拠にしているのかもしれない。
 
  紫上とこういう関係になって以来、源氏は、他の女の所に通って行く気など毛頭起きない。しかし今まで通っていた女の方からはさかんに誘いの手紙が来る。それに対して源氏はこう応じて、一切出かけようとしない。
  『世の中のいと憂く思ゆるほど過ぐしてなむ、人にも見えたてまつるべき』
  これは源氏得意の「嘘」である。
  彼の能力は限りなくあるが、中でもその弁舌は特筆するに値する。教育論、音楽・絵画などに関する芸術論、物語論や歌論など、その論理的で卓越した論調は誰にも真似ができない。
  特に口説きのテクニックは格別である。『帚木』の巻で、空蝉を口説く巧みさなどは、草子地から
  『例のいづく(何処)よりとうで給ふ言の葉にかあらむ。あはれ知るばかり、情けなさけしくの給ひ尽くす』
と皮肉られるほどである。「あの甘く情愛たっぷりな殺し文句は、一体どこから取り出して来たものでしょう」というわけである。
  しかしその多くは嘘で構築した言の葉である。軒端荻も六条御息所も玉鬘も、みなそうして彼女らに「あはれ(源氏恋しさ)」を感じさせてきた。でも、それらは他愛ない嘘で笑って済ますことができる程度のものである。

  ところが、この「世の中のいと憂く思ゆるほど過ぐしてなむ」はいけない。
  それでは、この言葉のどこに問題があるのだろうか。
  「世の中のいと憂く」とは、葵上の死によって「この世というものがいかに無常で辛いものであるか」ということを痛感したと言っているのだ。確かに、葵上の四十九日間、彼は実に真摯に喪に服していた。愛する妻を亡くした男の、悲しみに沈む典型のようですらあった。彼は、妻の死という無常が、いかに自分を打ちのめし、いかに自分に辛い思いをさせているか、を強調しているのである。
 
  ところがその不幸を、他の女たちの涙を誘うような言葉に代えて逢瀬を断る口実にしているのである。別に言えば一瞬でも紫上と離れたくないからである。妻の死をさえ、女関係に利用してしまう、その罰は重い。彼のその非道、不埒さは責められてしかるべきであろう。
  そしてぬけぬけと
  「この辛い思いがなくなったら、お会いも致しましょう」
と大勢の女たちに返書する厚顔さ。それもこれも「あひ見ての後の心」で、夜ごと紫上と閨を共にし、濃密な官能の世界に浸りたいがゆえなのだから・・。


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