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源氏物語

光源氏のとんだ勘違い 源氏物語たより549

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     光源氏のとんだ勘違い   源氏物語たより649

  光源氏が須磨に流れてきて半年ほど経った。須磨は
  『(昔はとにかく)今はいと里ばなれ、心すごくて、海士の家だに稀になむ』
というところである。「心すごし」とは、気味が悪いほどもの寂しいという意味で、かつて京で近衛大将として華々しく活躍していた光源氏のような者が住むべきところではない。半年たっても慣れるどころか、源氏の気持ちはますます落ち込んでいく。一人暮らしに堪えられず、いっそのこと紫上を呼び寄せようかとも思うのだが、彼女にはまして不似合いな浦で、とても呼び寄せることなどできない。
  目にするものは、今まで全く知りもしなかった下人ばかりであるし、こんなところに蟄居している自分自身が
  『かたじけなく』
思われてくる。天皇の子としてこの世に生を受け、人々の期待と称賛に満ちた毎日を送っていた自分だというのに、そんな自分に面目ないし何とも恐れ多いことであると、やりきれず絶望的な気持ちに陥らざるを得ない。

  そんな感慨にふけっているころに、煙がたいそう近いところにまで時々立ち上って来るのを
  『これや、海士の塩焼く(煙)ならむ』
とずっと思いこんでいたのに、実は
  『(源氏が)おはしますうしろの山に、柴というもの、ふすぶる(燻る)なりけり』
と気が付く。源氏ともあろうお方がとんだ勘違いをしていたものだ。女のこと以外ではめったに間違いや勘違いなどしなかったというのに。

  「藻塩」とは、「海藻を焼いて水に溶かし、その上澄みを釜で煮詰めて製する塩(角川書店 古語辞典より)」のことで、その時の煙を「藻塩焼きの煙」といって、古来しばしば歌に詠まれてきたいわば「歌枕」のようなもので、万葉集にも歌われている。源氏物語(『明石』『澪標』の両巻)にも引かれている古今集の
  『須磨の浦に塩焼く煙 風をいたみ 思はぬ方にたなびきにけり』
も、藻塩の煙を使って恋の頼りなさ詠っている。「藻塩の煙は、風がひどいもので思わぬ方に靡いて行ってしまった」と女(男?)の変身をなじったものだ。
  また同じ古今集には、これと似たような歌もある。
  『須磨の海士の塩焼き衣 をさをあらみ 間遠にあれや 君が来まさぬ』
  「をさ」は、機を織る時の器具で、織り目を密にする。「その織り目が荒いように、あの人がやって来る間隔も随分間遠になってしまった」と男の不実を嘆いている。
  百人一首には、藤原定家(源氏物語よりのずっと後の人だが)の次の歌が入れられている。
  『来ぬ人をまつほの浦の夕凪に 焼くや藻塩の身もこがれつつ』
  「松帆の浦(淡路島の北辺の海)で焚いている藻塩のように、私は身も焦れるほどにあの人のことを恋い焦がれている」という意味である。
  とにかく須磨といえば、「藻塩焼きの煙」が象徴しているようなものであり、古来、人々に愛されてきた風物であり、文学には欠かせない素材になってきた。そういうこともあって、源氏は勘違いしていたのかもしれない。

  山に住む身分卑しい者が柴を焚いている煙では歌にもならない。源氏は、自分でも呆れたのだろう、こんな歌を作って気持ちを紛らわす。
  『山がつのいほりに焚けるしばしばもこと問い来なん 恋ふる里人』
  「山賤が小屋で炊いている柴ではないが、しばしば便りを送ってほしいものだ」と言う意である。「里人」とは、都に残してきた人々のことで、特に紫上や藤壺宮などを指しているのであろう。「柴~しばしば」などという平凡な掛詞を使って誤魔化していて良い出来とは言えない。山賤でも詠えそうな歌である。

  それにしても、深刻にして絶望的な心境に陥っている場面に、突如滑稽な「源氏の勘違い」を入れて来る文章構成は紫式部の得意技とはいえ、さすがと言うしかない。
  源氏の勘違いまでは、読者は源氏とともに悲嘆に暮れ、これからどういう辛酸をなめることやらと案じていたはずだが、あまりに場にそぐわない滑稽に
  「あら嫌だわ。光源氏さまともあろうお方が、私でもしないような勘違いをなさって」
と可笑しくなり、「お、ほ、ほ」と思わず口に手を当てたのではなかろうか。
 
  ところが「山がつのいほりに・・」の歌の直後には
  『冬になりて、雪降り荒れたる頃、空の気色も殊に凄くながめ給ひて、琴を弾きすさび給ひて』
と、再び元の絶望の世界に突き進んでいく。「凄く」とは、「ぞっとするほど恐ろしい」という感覚である。背筋も凍る思いを断ちきるかのように、源氏は琴を弾くのだが、楽しんでいているわけではない。「すさぶ」は「心の赴くままに物事をする」という意味もあるが、この場合はむしろ「荒ぶ」が当てはまるような気がする。源氏のいかんともし難い心境を表す弾き方である。その後、供人と管弦の合奏などを始めるのだが、彼らは源氏の琴を聞いて
  『涙をおしのごひあへ』
るしかないのである。
 
  その夜、源氏はまどろむこともできずに、暁まで目を覚ましていた。すると千鳥が大層哀れ深く鳴き交わしている。「でも・・」と彼は思う。千鳥は仲間がいるではないか。
  『とも千鳥もろ声に鳴く暁は 一人寝ざめの床もたのもし』
  一人寝の床に、千鳥の「ち、ち」と鳴く声が寂しげに聞こえて来るが、でも「みんなで一緒に鳴いているのだ、何ともたのもしいことよ」と、気弱にも千鳥に勇気づけられた、と言う。源氏の捨て鉢のような絶望的な真情の吐露である。

  暗から明(あるいは躁)へ、そしてまた暗に展開していく紫式部の物語構成の妙を目の当たりにする思いである。

  ところが、玉上琢弥(角川書店『源氏物語評釈』)は、源氏の勘違いを「滑稽」として捉えていない。
  「須磨といえば『しほやく煙』と思いのほか、『しばやく煙』もあるのであった。寒くなったのである」
と言っている。寒くなったから裏の山で柴を焚きだしたという解釈である。これでは「だから何なの?」と思わせるだけの味気ないものに過ぎない。滑稽を間に挟むからこそ源氏の悲嘆・絶望がよりクローズアップされるというのに。
  そこにいくと、小学館はさすがである。
  「源氏の勘違いが物語に滑稽味を与えながら、それを通して須磨の景に奥行が加わる。柴焚く山里の晩秋である」
と注をしている。
  正しくそして味わい深く源氏物語を鑑賞するには、一冊の解説書では心もとないし、紫式部の文章作法の巧みさを見落してしまうという危険性も出て来る。


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