FC2ブログ

スポンサー広告

スポンサーサイト

 ←凝った掛詞  源氏物語たより651 →花散里という女性 源氏物語たより653
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。


もくじ  3kaku_s_L.png 未分類
もくじ  3kaku_s_L.png 郷愁
もくじ  3kaku_s_L.png 源氏
もくじ  3kaku_s_L.png 源氏物語
  • 【凝った掛詞  源氏物語たより651】へ
  • 【花散里という女性 源氏物語たより653】へ
  • TB(-)|
  • CO(-) 
  • Edit
 

源氏物語

掛詞の魅力 源氏物語たより652

 ←凝った掛詞  源氏物語たより651 →花散里という女性 源氏物語たより653
     掛詞の魅力(掛詞アラカルトその4) 源氏物語たより652

  最近、掛詞(洒落)に魅かれていて、街中を歩いていてもつい看板に目が行ってしまって掛詞が使われていないかとか、電車の中でも吊り広告の言葉が気になったりとかしている。とにかく四六時中、頭の中を掛詞が駆け巡っている(これも掛詞)。
  夫婦のやり取りも極めて掛詞的になっている。先日、私が台所で
  「垣根の 垣根の 曲がり角・・♪」
と歌っていると、妻が
  「柿、冷蔵庫にまだ一つ残っているわよ」
と言ってきたのには驚いた。私が柿が好きなもので、よく「柿、柿!」と騒いでいるものだから、妻は「柿、ねえの(ないの)?」と聞き違えてしまったのだ。単なる洒落ではあるが、この洒落なかなかの出来であるわいと、我ながら感心してしまった。
 
  それでは、最近、目にした新聞やテレビの掛詞をいくつか挙げてみよう。
  まずは、NНKの朝ドラ「ひよっこ」から。主人公・みね子の高校時代の男の子が勤める米屋の屋号が「阿部米店」。なにが「あべこべ(め)」なのかは分からないが。またその店の娘の名が「米子」では洒落にもならない。 
  ケシー高峰の漫談から。織田信長が何か苦しそうに顔をしかめていたので、森蘭丸が「殿、いかがなされた?」と聞いたら
  「いや、ほんの痔」
  最後に、神奈川新聞から。私の生まれ故郷が「綾瀬」というところなのだが、小さな市でもあるしネームバリューもない。その綾瀬に越してきた人が、知人から住まいを聞かれても、東京の綾瀬かと思われてしまったりして、なかなか理解してもらえない。そこで思いついたのが交通情報である。東名高速の混雑状況の情報でよく放送されるのが、「綾瀬バス停ふきん」である。彼は「それなら」ということで作りだしたのが
  「綾瀬バス停ふきん」
  その「布巾」の写真が新聞に載っていた。

  以前は「笑点」が面白くてよく見ていたのだが、最近の笑点は、仲間や身内の悪口を言って笑わせるようなものばかりで面白くなく、ほとんど見ることもなくなっていた。先日しばらくぶりに見てみたら
  「月々に月見る月は多けれど 月見る月はこの月の月」
が題材になっていて面白かった。
  「この句のように同じ言葉(音)を繰り返して、五・七・五・七・七の歌を作りなさい」
というお題である。メンバーの答えがそれぞれなかなか良い出来であった。中でも誰の答えであったろうか
  「とろとろと口にとろける云々」
というのがあって傑作と言っても良いものであった。「云々」以下の句を忘れてしまったが、後日、私がその部分を付け加えてみた。
  「とろとろと口にとろけるトロの味 そろそろここらで大トロを取ろ」
  これも我ながらの上出来で、「そろそろ」が利いている。「とろとろ」と音が近いし、微妙に全体の繰り返しを逸らしているところに味がある。また、最後の「大トロを取ろ」の「取ろ」が、今までの「とろ」と意を全く異にしていて絶妙、古今集並みの出来と言っていい。
  しばらくぶりに笑点で笑うことができた(失礼)。お題が好いのだろう。

  古今集にはこの掛詞が実に多い。特に「恋」の部には掛詞が溢れている。
  百人一首にも多く、百首中なんと三十五首もある。中には一首に二個ないし三個の掛詞が使われていることもある。
  たとえば、在原行平(業平の兄)が因幡の守になって、任地に赴く時の送別の宴の時の歌がそうだ。
  『立ち別れいなばの山の峰に生ふる まつとし聞かば いま帰り来む』
  ここに二つの掛詞が使われているのだが、分かるだろうか。まず一つは、「まつ」である。「松」は、掛詞の常連のような言葉でしばしば使われるので、「ああ、“待つ”だな」とすぐ気付くはずである。
  もう一つの「いなば」はどうだろうか。「因幡」と「往なば」が掛けられているのである。でも在原行平は因幡の守になって行くのだから、これは単なる「洒落」ではなく、意味をもった掛詞である。
  また、因幡山の松が当時有名であったのかどうかは分からないが、恐らく因幡山は日本海にある山であろうから、その海と松との風光はさぞかし見ごたえのあるものであったろう。とすれば、これも意味のある掛詞ということになる。
  都の貴族にとって、京を離れることは辛いことである。できることなら京に残りたい。したがって、因幡山の「松」を想像しただけで、見送ってくれる人々が「待つ」ていると響いてきてしまうのだ。「いま」は「今すぐにも」という意味である。それでも「往かね」ばならない。そんな深刻な思いがこの歌には詠い込まれているのである。
  後に触れることになると思うが、万葉集などでしばしば使われている「序詞」には、さしたる意味のないものが多い(実は万葉集には凡作が多いのだが)。それに比べて、意味を持つ序詞のことを「有心の序」と言う。在原行平の掛詞が、仮に二つとも意味を持つものであるとするならば、「有心の掛け」と名付けてもいいのではなかろうか。

  もう一つ百人一首から例を上げよう。和泉式部が、夫について丹後の国に行っていた時に、都で歌合が催されることになった。彼女の娘である小式部内侍が、その歌合の歌詠みに選ばれた。すると、某中納言が
  「歌はどうなさいます。丹後に使いはやりましたか」
と小式部内侍に言葉をかけてきた。和泉式部は歌の名手として知られた人である。その母が今はいないので、それでは
  「あなたもお困りでしょ?丹後に手紙を出してお母さんのご指導でも受けましたか」
とからかったのだ。その時の小式部内侍の歌が
  『大江山いく野の道の遠ければ まだふみも見ず天の橋立』
である。ここにも二か所に掛詞が使われている。一つは「いく野」で、丹後に行く時に通る地名である。その「生野」を通って丹後まで行くのははるかに遠い。
  「そんな遠くまで私はまだ『踏み』行ったこともありませんし、母の『文(手紙)』もまだ見ておりませんわ」
と切り返したものである。見事な応対で、彼女の機智と才気には敬意を称するしかない。これぞまさに「有心の掛け」と言える。
 
  百人一首の中で最も掛詞を生かしている歌は、周防内侍の
  『春の夜の夢ばかりなる手枕に かひなくたたむ名こそをしけれ』
ではなかろうか。これも男とのやり取りの歌である。ここで使われている掛詞の「かひな」が実に巧妙である。
  月の明るい夜、大勢の人が集まって遅くまで話をしていた時に、作者が眠くなったのであろう、横になって「枕でも欲しいわ」とつぶやいた時に、それを耳ざとく聞きつけた大納言が、御簾の下からが自分の腕をにゅっと出して、
  「この腕をどうぞ」
と冗談を言ってきた時に応じた歌である。「あなたの『手枕』に私の腕をどうぞ」と言ってきたのだが、「そんな『腕』では役にも立たず、変な噂が立つばかり」と応じたのである。「腕(かいな)」と「甲斐な(し)」とを掛けたものである。この男もなかなか危ないセンスの持ち主であるが、それに対して、即「春の夜の・・」と応じる女の当意即妙が「あっぱれ!」で、座布団十枚さし上げても足りないくらいである。

  源氏物語にも多くの掛詞が使われている。物語の最初の歌が既に掛詞である。
  『限りとて 別るる道の悲しきに いかまほしきは命なりけり』
  帝と三歳の光源氏を残して、臨終の床にある桐壷更衣が詠った歌である。今までも何度も取り上げて来たので詳しいことは省くが、人の命には「限り(宿命)」があることは分かっている。しかしここで愛する二人の人と別れなければならない更衣の悲しみは言語に絶するものがある。
  「なんとか『生きたい』のです。私が『行きたい』のは、命ある世界の方なのです」
という悲痛な叫びは、肺腑を打つ。
  これは、源氏物語の中でも出色の歌と言えるだろう。そこに掛詞が使われていることを思うと、掛詞は単なる言葉の遊びではないのだ、歌の世界を掘り下げるに十分なる修辞なのだ、ということが分かってくる。

  「掛詞アラカルト」とは、「源氏物語たより」のNо630、646、651をさす。


もくじ  3kaku_s_L.png 未分類
もくじ  3kaku_s_L.png 郷愁
もくじ  3kaku_s_L.png 源氏
もくじ  3kaku_s_L.png 源氏物語
  • 【凝った掛詞  源氏物語たより651】へ
  • 【花散里という女性 源氏物語たより653】へ
 

~ Comment ~

管理者のみ表示。 | 非公開コメント投稿可能です。

~ Trackback ~

トラックバックURL


この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)

  • 【凝った掛詞  源氏物語たより651】へ
  • 【花散里という女性 源氏物語たより653】へ
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。