源氏物語
明石入道の狼狽ぶり 源氏物語たより659
明石入道の狼狽ぶり 源氏物語たより659
朱雀帝は、自分や母・大后の病気などが重なって、譲位のことを考え始める。ところが、譲位すべき春宮には、光源氏以外これといった後見人がいない。そこで、源氏を都に呼び戻すべく決意し、ついにその宣旨が七月二十日あまりに下される。明石に流れて来てから一年四カ月ほど、源氏二十八歳の時である。
源氏にとっては待ちに待った帰還であるから、嬉しいはずなのだが、いざこの明石の浦を離れるとなると、一抹の嘆きも加わってくる。
一方、明石入道も自分の娘婿が念願かなって帰京するのだから、大変な慶事で喜ばしい限りなのだが、源氏帰京の報に接するなり、
『胸うちふたがりて』
しまう。
いずれも明石君にかかわることでの嘆きである。源氏は、愛する明石君をここに残して行かなければならないことが気がかりでならないし、入道は入道で、源氏が果たして娘を迎えに来てくれるものかどうか、それを思うと居ても立ってもいられなくなるのだ。それでも気丈に
『思いのごと、(源氏様が)栄え給はばこそ、我が思ひの叶ふにはあらめ』
と思い直しはする。
しかも、そんな時も時、明石君に妊娠のきざしが見える。
八月になり源氏は明石を去って行く。
愛する人と別れなければならない明石君にとっての嘆きは一通りではない。
『(源氏さまが自分を)うち捨て給へる恨みのやる方なきに、面影そひて、忘れがたきに、たけきこととは涙に沈めり』
という具合で、精一杯できることといえば涙に沈むくらいしかない。母もまた
「どうしてあんなひね曲がった夫の言うことに従ってしまったのか」
と思うと不平を言わないではいられない。入道は、そういう妻と娘を叱りつける。
『あなかまや。おぼし捨つまじきこともものし給ふめれば、さりともおぼすところあらむ。思ひ慰めて御湯などだにまゐれ。あなゆゆしや』
少し難しい言葉があるので、細かに見ておこう。
まず「あなかまや」とは、「うるさい、お黙りなさい」ということ。
「おぼし捨つまじきこと」とは、娘が妊娠しているので源氏様が娘を捨てるようなことはあるまい、ということ。
「さりとも」とは、古語によく出て来る言葉で「いくらなんでも」ということ。
「おぼすところ」とは、源氏さまには好いお考があられよう、ということ。
「御湯などまゐれ」とは、お前は妊娠中なのだから薬でも飲みなさい、ということ。
妻と娘に対して大層ものの分かった賢明な説得である。
ところが次がいけない。
『いとど呆けられて、昼は日一日、寝(い)をのみ寝暮らして、夜はすくよかに起きゐて、「数珠の行方も知らずなりにけり」とて、手をおし摺りて(天を)仰ぎ居たり。弟子どもにあばめられて、月夜には出でて、行道するものは、遣水に倒れ入りにけり。よしある岩の片側(かたそば)に、腰もつきそこなひて、病み臥したるほどになむ、少しもの紛れける』
娘や妻にはあんなに分かったように賢明な説得をしたというのに、自分の方が更に呆けてしまっていた。源氏の帰京が、妻と娘以上に彼にとってはショックだったのだろう。
この場面は、林望氏(祥伝社『謹訳源氏物語』)が、入道の姿を生き生きと写し取り、見事に意訳しているので、そちらを拝借しておこう。
「昼は日がな一日寝ていて、夜になるとすっくと起き上がっては、『数珠が行方知れずになった』などとたわけたことを言いながら、空に向かって手を合わせているというようなていたらくであった。これには弟子どもにさえ馬鹿にされる始末で、かくてはならじと一念発起して月夜に庭に出て念仏修行でもしようかと思ったとたんに、遣水のなかにひっくり返ってしまった。風流な庭石がそこらにあったので、あいにくとその岩角に腰をぶつけて怪我までしでかす始末、とうとう病み臥せてしまったが、こうなってはじめて、痛いやら苦しいやらで、心の悲しみも多少は紛れたという次第であった」
僧だというのに、夜行をするのに数珠の行方が分からぬと言ったり、行道するのは殊勝なのだが、遣水に落ち込んでしまったり、しかも岩角に腰をぶっつけて病み込んでしまったりするとは、何ともあさましい限りの惨状である。
ここにいくつかの皮肉な笑いが配されている。「岩」ですむところを「よしある岩」とわざわざ断っている。「よしある」とは、曰く因縁のある風流なという意味である。入道が財に任せて風情ある庭石を配していたのだろうが、その岩に腰をぶつけるというのだから、ご丁寧な皮肉である。
ところが、その「よしある岩」にぶつけた腰の痛さゆえに、源氏が娘を置き去りにして行った嘆きや悲しみを忘れることができたというのだから、これまた随分な皮肉である。
深刻な場面にさりげなく皮肉な笑いを配するのは、紫式部の得意である。入道が娘の将来に関して嘆き悲しんでいるというのに、それを外から見ていてくすりと笑っているのだから、人が悪い。でも末摘花にしたような嘲笑や悪意は、ここでは一切感じ取ることができない。むしろ入道を可哀そうと思いながらも、その狼狽ぶりを好意と少々の可笑しみをもって見ていられる。
さて、三人三様の悲嘆や不安あるいは懐疑は理解するに余りあるものがある。源氏が果たして明石君を迎えに来てくれるかどうかは全く未知数なのだから。田舎の娘が、都からきた男にしばしば弄ばれ欺かれ、捨てられる例は多かったはずである。まして源氏は、天皇の子である。一介の受領に過ぎないその娘を捨てずに都に迎え入れるなど、考えてみればむしろ奇跡に近いことだ。
源氏という男は、一度関係した女を捨てることがないという殊勝な特性を知っているのは読者だけで、明石一族にとっては関知しないこと、捨てられるであろう不安はいや増すばかりであったろう。
それにしても源氏はなぜ明石君を京に帯同しなかったのだろうか。彼女とのことは、紫上にはそれとなく知らせてあることだから、そちらの心配は薄い。それでは世間へのこだわりだろうか。流謫の身でいた者が「女ずれで・・」という非難を憚ったのだろうか。そしてそれらの非難・中傷が収まった頃に、都に呼び寄せようというさもしい魂胆でもあったのだろうか。
その後、足掛け四年にわたって彼は明石君母子を明石に放っておく。彼女自身が上京を躊躇っていたことも事実のようではあるが、源氏にも本気で引き取る気はなかったこともまた事実と言わざるを得ない。明石君を
「六条御息所に似ている」
『たをやぎたるけはひ(しとやかな容姿)、親王たちといはむに足りぬべし』
とまで執拗なほどに明石君を褒めちぎってきたのは何のためだったか。将来生まれ出る姫君が「后がね」であることを計算していたからではなかったのか。将来の后ともあろう者の母親が、田舎生まれの田舎育ちでは問題にならない。ましてその姫君が母と同じ状況で育ったのでは、とても宮廷で交わっていくことはできない。
だとすれば一刻も早く明石君母子を呼び寄せるのが、源氏としての最大にして絶対の責務ではなかったのだろうか。少なくとも姫君が一歳の時には引き取るべきであった。
『思ひ捨てがたきすぢ(妊娠)もあめれば、いまいと疾く見直し給ひてむ。ただこの(明石の)住処こそ見捨てがたけれ』
と入道に言って出てきているのだから。「たとえ私が都に去ってしまったとしても、必ず母子を迎えるであろう。そのことはすぐに納得できるはずです、安心して下さい」ということだ。にもかかわらず、源氏が、明石君と姫に対面するまでには、四年もの年月を要することとなってしまった。
入道の心配は現実になった。あの狼狽ぶりは杞憂からのものではなかったのだ。この四年間の入道一家の不安、焦燥、疑惑は想像するに余りある。もちろん源氏は手紙のやり取りは欠かすことなく、また姫の五十日(いか)の祝いなどは忘れることなく礼を尽くしてはいる。しかしだからと言って、それで安心できるというものではない。
あの状況では、その後も、入道は何度も「よしある岩」に腰をぶつけたり、遣水に落ち込んだりしていたのではなかろうか。
朱雀帝は、自分や母・大后の病気などが重なって、譲位のことを考え始める。ところが、譲位すべき春宮には、光源氏以外これといった後見人がいない。そこで、源氏を都に呼び戻すべく決意し、ついにその宣旨が七月二十日あまりに下される。明石に流れて来てから一年四カ月ほど、源氏二十八歳の時である。
源氏にとっては待ちに待った帰還であるから、嬉しいはずなのだが、いざこの明石の浦を離れるとなると、一抹の嘆きも加わってくる。
一方、明石入道も自分の娘婿が念願かなって帰京するのだから、大変な慶事で喜ばしい限りなのだが、源氏帰京の報に接するなり、
『胸うちふたがりて』
しまう。
いずれも明石君にかかわることでの嘆きである。源氏は、愛する明石君をここに残して行かなければならないことが気がかりでならないし、入道は入道で、源氏が果たして娘を迎えに来てくれるものかどうか、それを思うと居ても立ってもいられなくなるのだ。それでも気丈に
『思いのごと、(源氏様が)栄え給はばこそ、我が思ひの叶ふにはあらめ』
と思い直しはする。
しかも、そんな時も時、明石君に妊娠のきざしが見える。
八月になり源氏は明石を去って行く。
愛する人と別れなければならない明石君にとっての嘆きは一通りではない。
『(源氏さまが自分を)うち捨て給へる恨みのやる方なきに、面影そひて、忘れがたきに、たけきこととは涙に沈めり』
という具合で、精一杯できることといえば涙に沈むくらいしかない。母もまた
「どうしてあんなひね曲がった夫の言うことに従ってしまったのか」
と思うと不平を言わないではいられない。入道は、そういう妻と娘を叱りつける。
『あなかまや。おぼし捨つまじきこともものし給ふめれば、さりともおぼすところあらむ。思ひ慰めて御湯などだにまゐれ。あなゆゆしや』
少し難しい言葉があるので、細かに見ておこう。
まず「あなかまや」とは、「うるさい、お黙りなさい」ということ。
「おぼし捨つまじきこと」とは、娘が妊娠しているので源氏様が娘を捨てるようなことはあるまい、ということ。
「さりとも」とは、古語によく出て来る言葉で「いくらなんでも」ということ。
「おぼすところ」とは、源氏さまには好いお考があられよう、ということ。
「御湯などまゐれ」とは、お前は妊娠中なのだから薬でも飲みなさい、ということ。
妻と娘に対して大層ものの分かった賢明な説得である。
ところが次がいけない。
『いとど呆けられて、昼は日一日、寝(い)をのみ寝暮らして、夜はすくよかに起きゐて、「数珠の行方も知らずなりにけり」とて、手をおし摺りて(天を)仰ぎ居たり。弟子どもにあばめられて、月夜には出でて、行道するものは、遣水に倒れ入りにけり。よしある岩の片側(かたそば)に、腰もつきそこなひて、病み臥したるほどになむ、少しもの紛れける』
娘や妻にはあんなに分かったように賢明な説得をしたというのに、自分の方が更に呆けてしまっていた。源氏の帰京が、妻と娘以上に彼にとってはショックだったのだろう。
この場面は、林望氏(祥伝社『謹訳源氏物語』)が、入道の姿を生き生きと写し取り、見事に意訳しているので、そちらを拝借しておこう。
「昼は日がな一日寝ていて、夜になるとすっくと起き上がっては、『数珠が行方知れずになった』などとたわけたことを言いながら、空に向かって手を合わせているというようなていたらくであった。これには弟子どもにさえ馬鹿にされる始末で、かくてはならじと一念発起して月夜に庭に出て念仏修行でもしようかと思ったとたんに、遣水のなかにひっくり返ってしまった。風流な庭石がそこらにあったので、あいにくとその岩角に腰をぶつけて怪我までしでかす始末、とうとう病み臥せてしまったが、こうなってはじめて、痛いやら苦しいやらで、心の悲しみも多少は紛れたという次第であった」
僧だというのに、夜行をするのに数珠の行方が分からぬと言ったり、行道するのは殊勝なのだが、遣水に落ち込んでしまったり、しかも岩角に腰をぶっつけて病み込んでしまったりするとは、何ともあさましい限りの惨状である。
ここにいくつかの皮肉な笑いが配されている。「岩」ですむところを「よしある岩」とわざわざ断っている。「よしある」とは、曰く因縁のある風流なという意味である。入道が財に任せて風情ある庭石を配していたのだろうが、その岩に腰をぶつけるというのだから、ご丁寧な皮肉である。
ところが、その「よしある岩」にぶつけた腰の痛さゆえに、源氏が娘を置き去りにして行った嘆きや悲しみを忘れることができたというのだから、これまた随分な皮肉である。
深刻な場面にさりげなく皮肉な笑いを配するのは、紫式部の得意である。入道が娘の将来に関して嘆き悲しんでいるというのに、それを外から見ていてくすりと笑っているのだから、人が悪い。でも末摘花にしたような嘲笑や悪意は、ここでは一切感じ取ることができない。むしろ入道を可哀そうと思いながらも、その狼狽ぶりを好意と少々の可笑しみをもって見ていられる。
さて、三人三様の悲嘆や不安あるいは懐疑は理解するに余りあるものがある。源氏が果たして明石君を迎えに来てくれるかどうかは全く未知数なのだから。田舎の娘が、都からきた男にしばしば弄ばれ欺かれ、捨てられる例は多かったはずである。まして源氏は、天皇の子である。一介の受領に過ぎないその娘を捨てずに都に迎え入れるなど、考えてみればむしろ奇跡に近いことだ。
源氏という男は、一度関係した女を捨てることがないという殊勝な特性を知っているのは読者だけで、明石一族にとっては関知しないこと、捨てられるであろう不安はいや増すばかりであったろう。
それにしても源氏はなぜ明石君を京に帯同しなかったのだろうか。彼女とのことは、紫上にはそれとなく知らせてあることだから、そちらの心配は薄い。それでは世間へのこだわりだろうか。流謫の身でいた者が「女ずれで・・」という非難を憚ったのだろうか。そしてそれらの非難・中傷が収まった頃に、都に呼び寄せようというさもしい魂胆でもあったのだろうか。
その後、足掛け四年にわたって彼は明石君母子を明石に放っておく。彼女自身が上京を躊躇っていたことも事実のようではあるが、源氏にも本気で引き取る気はなかったこともまた事実と言わざるを得ない。明石君を
「六条御息所に似ている」
『たをやぎたるけはひ(しとやかな容姿)、親王たちといはむに足りぬべし』
とまで執拗なほどに明石君を褒めちぎってきたのは何のためだったか。将来生まれ出る姫君が「后がね」であることを計算していたからではなかったのか。将来の后ともあろう者の母親が、田舎生まれの田舎育ちでは問題にならない。ましてその姫君が母と同じ状況で育ったのでは、とても宮廷で交わっていくことはできない。
だとすれば一刻も早く明石君母子を呼び寄せるのが、源氏としての最大にして絶対の責務ではなかったのだろうか。少なくとも姫君が一歳の時には引き取るべきであった。
『思ひ捨てがたきすぢ(妊娠)もあめれば、いまいと疾く見直し給ひてむ。ただこの(明石の)住処こそ見捨てがたけれ』
と入道に言って出てきているのだから。「たとえ私が都に去ってしまったとしても、必ず母子を迎えるであろう。そのことはすぐに納得できるはずです、安心して下さい」ということだ。にもかかわらず、源氏が、明石君と姫に対面するまでには、四年もの年月を要することとなってしまった。
入道の心配は現実になった。あの狼狽ぶりは杞憂からのものではなかったのだ。この四年間の入道一家の不安、焦燥、疑惑は想像するに余りある。もちろん源氏は手紙のやり取りは欠かすことなく、また姫の五十日(いか)の祝いなどは忘れることなく礼を尽くしてはいる。しかしだからと言って、それで安心できるというものではない。
あの状況では、その後も、入道は何度も「よしある岩」に腰をぶつけたり、遣水に落ち込んだりしていたのではなかろうか。
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