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源氏物語

それとない創作上の配慮  源氏物語たより663

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     それとない創作上の配慮   源氏物語たより663

  前回は、人の思惑などにはお構いなく強引に玉鬘に求婚し、相手の都合など「ものかは」で、勝手に結婚の日取りまで決めてしまう大夫の監が、豪族として勢力を張っている地を「肥後」にしたことについては、作者にそれなりの意図があったのではないだろうか、ということを問題にした。紫式部が物語に載せる事象にはいい加減なものはなく、全てに意味が持たされている。それに対してのこだわりは異常なほどで、偏執的と言っも過言ではない。それは、読者からの批判をかわしたいがため、あるいは「単にその場限りの作り物語ではないのだ」という自負からきているのかもしれない。

  『玉鬘』の巻には、そういう点からもう一か所考えさせる場面がある。
  それは、玉鬘が、乳母一家に連れられて筑紫に下る場面と、大夫の監の求婚から逃れて、京に戻る場面とである。
  玉鬘一行は、都落ちするに当たって、京から伏見までは徒歩、伏見から大阪までは淀川を舟で、そして瀬戸内海を島伝いに船で筑紫まで行ったものと考えられる。おおよそ三十日にわたる行程だと言う。相当の長途の旅である。
  ただ不思議なことには、これだけの大旅行をすれば、さまざまな景観・風物などが一行の目に入ったであろうにもかかわらず、それらに関する記述は誠に素っ気ない記述しかない。たとえば旅の途中の風光については
  『おもしろき所どころを見つつ』
とあるだけなのである。そして突如
  『鐘の御崎(みさき)を過ぎても』
となってしまう。「鐘の御崎」とは、今の福岡県宗像郡玄海町にある崎のことで、最近世界遺産に認定された宗像神社の中津宮がある大島にほど近い景勝地である。つまり、すでに目的地が目前ということである。その直後に
  『かしこ(大宰府)に至り着きて』
とある。この間、歌枕や様々な景勝地を過ぎているはずなのに、それらに関しては一切触れていない。
  このことに関して、例の玉上琢弥(角川書房『源氏物語評釈』の著者)はこう言っている。
  「後世であれば、こういうところは、叙景の筆をあやつるべきなのだが、この作者はそういうことをしない。作者は、こんな大旅行をしたことはないのだし、読者はもとよりのことである。よしや作者に経験があり、実景を叙したところで分かる読者ではなく、興味を持つ読者ではない。だから作者は、古歌をかりてかたづけ、おもしろそうな地名を詠みこんだ歌で済ませることにする。このほうが、読者の想像を無限にひろげることになるのである」
  そうだろうか。
  玉上琢弥には、自分の独断を読者に押しつけがましく陳述する癖があり、「そんな馬鹿なことがあろうか」と思わせることがしばしば出てくる(特に『夕顔』の巻はひどい)。
  この論で言えば、紫式部には大旅行の経験がないから実景は書けないということになってしまう。そんなことはないのであって、彼女は父(藤原為時)が越前守になった時に、父に付いて越前まで行っている。琵琶湖を船で湖北の塩津まで渡り、山(塩津山)越えをし、敦賀に出、その後、北陸道を国府のある武生までという旅である。
  武生までの行程は四日程度と言うから、大宰府までとは比べものにならないが、それでも当時とすれば大旅行である。琵琶湖上の景勝地や敦賀の海の景色は彼女の心を沸かせたはずである。彼女の歌集にこの時の歌が載っている。その一つ、前書きに
  『磯の浜に鶴(たづ)の声々に鳴くを(聞いて)』
とある歌を上げておこう。
  『磯がくれ同じ心に鶴ぞ鳴く 汝(な)が思ひ出づる人や誰ぞも』
  京を出たばかりだというのに、鶴の鳴く声を聞いてもう都のことを思い偲んでいる。
  まして三十日の行程の筑紫への旅ともなれば、紫式部とすれば書きたいことは無限にあったであろう。
  それに、彼女の研究心と想像力と筆力は並大抵のものではない。特に瀬戸内の歌枕や景勝の地は熟知していたはずで、彼女の筆を借りれば、当時の読者をわくわくさせる場面などいくらでも創作できたはずである。それに「(瀬戸の叙景などは)分かるはずもないし、興味を持つ読者ではない」とは、随分平安の姫君たちを蔑んでいることになるではないか。あまりの独断と言わざるを得ない。

  玉鬘が二十一歳の時に、大夫の監の求愛から逃れるために、随分の無理を押して上京する。行程は先の逆になる。この場面にも玉上が言う「叙景」はない。
  『ひびき灘』
から一気に
  『河尻というところに近づきぬ』
となっている。その直後に、船頭の謡う言葉として
  『唐泊(からどまり)より河尻押すほどは』
とあるだけなのである。
  「ひびき灘」とは、玄海灘の東で福岡県と山口県に面している海域のことである(玉上はこれを播磨としているが)。「河尻」は、淀川の河口であるから、その間の記述は何もないということになる(なお「唐泊」とは、兵庫県の港である)。
  瀬戸内海は景勝の地の宝庫のようなもので、熟田津あり鞆の浦あり淡路島あり明石・須磨がある。その他の歌枕も多い。紫式部は、それらに触れたくてうずうずしていたのではなかろうか。それでも彼女は、一切を省いてしまっている。
  それは物語の展開に叙景は関係ないからである。

  筑紫下りの時には、玉鬘は
  『母の御もとへ行くか』
というほどの幼さだった。むしろ乳母たちは、夕顔にこそこの景色を見せたいものと言っている。つまり、女主人公は景色も風物もない年ごろなのである。また乳母や娘たちにとっては、京を離れる哀しばかりが切実で、
  『京の方のみ思ひやられるるに、(京の方に)返る波もうらやましく心細きに』
という状態なのであって、どんな歌枕も景勝地も上の空であった。

  京への帰還は、まして恐怖に満ちたものであった。とにかく一行は一刻も早く大夫の監から逃げ延びなければならないのである。
  『かく逃げぬるよし(噂を監が)おのずから言ひ伝へば、負けじ魂にて、追ひ来なんと思ふに、心も惑ひて』
という心理状態にあった。そんな恐怖に怯えている者が、どうして暢気に景色など見ていられようか。河尻に着いた時に一行はやっと
  『少し生きいづる心地する』
のだが、それももっともで、彼らが胸をなでおろす様子が手に取るように察することができる。とにかく「早船」を仕立てて転げるように京に向かったのである。

  紫式部が、玉鬘一行の筑紫下りに際しても京への帰還に際しても、ほとんど「叙景」らしい叙景をしなかったのは、このような事情があったからであって、彼女に旅の経験がなくて書けなかったからでもなく、読者に景物・風物を理解する能力や興味がなかったからでもない。彼女は、筋にかかわることをこそ凝縮して、そのことによって物語により一層の緊迫感をもたらせようとしたのである。


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