源氏物語
完璧なまでの挨拶言葉 源氏物語たより665
完璧なまでの挨拶言葉 源氏物語たより665
別れてから三年ぶりに明石から嵯峨の大井に移ってきた明石親子を、光源氏は紫上に遠慮しいしい会いに行く。遣水を繕わせようとして袿姿で寛いでいると、渡殿の所に閼伽の具が見える。尼母がいることに気付いた源氏は早速挨拶に出かける。
この時の源氏の挨拶が誠に意を尽くした万全のものなのである。要約するとこうなる
1、明石姫君を見事にお育ていただいたこと、深く御礼申し上げます。
2、そうできたのも、あなた様が仏道精進に邁進してこられたたまものと感動いたします。
3、それにしても、明石の地において悟りきった静かな生活をしておられたにもかかわらず、それを振り捨てて我々の将来のために 上京してくださった志は容易なものではございません。
4、明石に残してこられたご主人さま(入道)のことを思いますに、さぞかし気がかりで感無量なものがおありと拝察いたします。
短い言葉の中に、言うべき全てを網羅した完璧なまでの挨拶といえる。幼児養育への感謝、仏道専心修行への感嘆、明石を捨てて自分たちの今後へ深い配慮されたことへのお礼、そして愛する夫を残してきたことへの同情、これらを
『いとなつかしうのたま(ふ』
のだから、尼君としても肺腑をえぐられるものがあったろう。
これに対する尼君の返礼もまた見事である。
「すべてを捨てて再び上京してまいりましたことで、私の心は混乱の極みにありました。そんな私の心情をあなたさまに十二分ご推察いただきましたことで、長く生きて来た甲斐があったものとつくづく悟った次第でございます」
引き続いて尼君は言う。
「明石などという田舎に育った姫君ということで心配しておりましたが、大井に来て盤石のお陰(源氏)を得ることができました。これで何もかも安心でございます。それにしても何分にも母親(明石君)の
『浅き根ざし故やいかが』
とそればかりが気がかりでございます」
「浅き根ざし故」とは、娘の素性(故)が卑しい(浅き)ということである。
と、源氏は即座に尼君の祖父に話題を持っていく。なぜなら、彼女の祖父は「中務宮」であったからである。「親王の血を引く立派な家柄ではございませんか、「浅き根ざし」どころではありませんよ」と、尼君が自分の身分に劣等意識を持つことを牽制したのである。
このそつのない応対は凡人のできる技ではない。よく気の回る源氏にして初めて可能な挨拶言葉といえる。
そこで、尼君はさらに卑下したような歌を詠む。
「でもそれははるか昔のこと。今こうして久しぶりに都に戻ってみますと、その面影はさっぱり残っておりません。遣水の清水だけが昔を知り顔に流れているばかりでございます」
源氏は、尼君のそんな応対を
『わざとはなくて言いけつさま、みやびかによし』
と感じるのである。わざとらしくなく、今はもうこの邸の主人でないとへりくだった詠みぶりを、品があって立派な人物であると評価しているのである。
そこで源氏も歌で返す。
『いさら井は早くのことも忘れじを 元の主や面変わりせる』
「遣水は、昔のことを決して忘れてなどいませんよ。あなたが貴い身分のお方だということをね。ただ、あなたは尼という身分に姿を変えてしまわれましたけれども・・。
何とも優しく温かく雅な応答ではないか。源氏は天皇の子であるから、元よりそうであることは当然であるが、京を離れて久しい尼君も、宮家の血を引く家柄であるからだろう、源氏に劣らずまた雅で奥ゆかしい。生まれ育ちのよさは、年月に関わらず保たれるもののようである。
天皇の子を相手にしたりすれば、つい自己の生い立ちの良さを吹聴したくなるものだが、それを抑えて、「この邸だって今は私のものではありません」とまで謙遜する。
源氏は出しゃばらない女性、またやたらと自己主張しない女性をいつも評価している。でも、尼君は言うべきことはちゃんと言っている。それが彼女の言葉の中にほの見える。
この二人の応対を見ていると、我々も日常の中に生かさなければと思う点をいくつも見出すことができる。
相手の長所、美点を忘れず讃えてあげること、自らはそれを誇示しないこと、感謝の気持ちをいつも持っていること、そして相手の心情を理解しそれに共感できること、また必要に応じて謙遜すべきはすること、しかし謙遜しすぎたりしないこと、などなど。
別れてから三年ぶりに明石から嵯峨の大井に移ってきた明石親子を、光源氏は紫上に遠慮しいしい会いに行く。遣水を繕わせようとして袿姿で寛いでいると、渡殿の所に閼伽の具が見える。尼母がいることに気付いた源氏は早速挨拶に出かける。
この時の源氏の挨拶が誠に意を尽くした万全のものなのである。要約するとこうなる
1、明石姫君を見事にお育ていただいたこと、深く御礼申し上げます。
2、そうできたのも、あなた様が仏道精進に邁進してこられたたまものと感動いたします。
3、それにしても、明石の地において悟りきった静かな生活をしておられたにもかかわらず、それを振り捨てて我々の将来のために 上京してくださった志は容易なものではございません。
4、明石に残してこられたご主人さま(入道)のことを思いますに、さぞかし気がかりで感無量なものがおありと拝察いたします。
短い言葉の中に、言うべき全てを網羅した完璧なまでの挨拶といえる。幼児養育への感謝、仏道専心修行への感嘆、明石を捨てて自分たちの今後へ深い配慮されたことへのお礼、そして愛する夫を残してきたことへの同情、これらを
『いとなつかしうのたま(ふ』
のだから、尼君としても肺腑をえぐられるものがあったろう。
これに対する尼君の返礼もまた見事である。
「すべてを捨てて再び上京してまいりましたことで、私の心は混乱の極みにありました。そんな私の心情をあなたさまに十二分ご推察いただきましたことで、長く生きて来た甲斐があったものとつくづく悟った次第でございます」
引き続いて尼君は言う。
「明石などという田舎に育った姫君ということで心配しておりましたが、大井に来て盤石のお陰(源氏)を得ることができました。これで何もかも安心でございます。それにしても何分にも母親(明石君)の
『浅き根ざし故やいかが』
とそればかりが気がかりでございます」
「浅き根ざし故」とは、娘の素性(故)が卑しい(浅き)ということである。
と、源氏は即座に尼君の祖父に話題を持っていく。なぜなら、彼女の祖父は「中務宮」であったからである。「親王の血を引く立派な家柄ではございませんか、「浅き根ざし」どころではありませんよ」と、尼君が自分の身分に劣等意識を持つことを牽制したのである。
このそつのない応対は凡人のできる技ではない。よく気の回る源氏にして初めて可能な挨拶言葉といえる。
そこで、尼君はさらに卑下したような歌を詠む。
「でもそれははるか昔のこと。今こうして久しぶりに都に戻ってみますと、その面影はさっぱり残っておりません。遣水の清水だけが昔を知り顔に流れているばかりでございます」
源氏は、尼君のそんな応対を
『わざとはなくて言いけつさま、みやびかによし』
と感じるのである。わざとらしくなく、今はもうこの邸の主人でないとへりくだった詠みぶりを、品があって立派な人物であると評価しているのである。
そこで源氏も歌で返す。
『いさら井は早くのことも忘れじを 元の主や面変わりせる』
「遣水は、昔のことを決して忘れてなどいませんよ。あなたが貴い身分のお方だということをね。ただ、あなたは尼という身分に姿を変えてしまわれましたけれども・・。
何とも優しく温かく雅な応答ではないか。源氏は天皇の子であるから、元よりそうであることは当然であるが、京を離れて久しい尼君も、宮家の血を引く家柄であるからだろう、源氏に劣らずまた雅で奥ゆかしい。生まれ育ちのよさは、年月に関わらず保たれるもののようである。
天皇の子を相手にしたりすれば、つい自己の生い立ちの良さを吹聴したくなるものだが、それを抑えて、「この邸だって今は私のものではありません」とまで謙遜する。
源氏は出しゃばらない女性、またやたらと自己主張しない女性をいつも評価している。でも、尼君は言うべきことはちゃんと言っている。それが彼女の言葉の中にほの見える。
この二人の応対を見ていると、我々も日常の中に生かさなければと思う点をいくつも見出すことができる。
相手の長所、美点を忘れず讃えてあげること、自らはそれを誇示しないこと、感謝の気持ちをいつも持っていること、そして相手の心情を理解しそれに共感できること、また必要に応じて謙遜すべきはすること、しかし謙遜しすぎたりしないこと、などなど。
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