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源氏物語

桂離宮と源氏物語  源氏物語たより668

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     桂離宮と源氏物語   源氏物語たより668

  京都には何度となく行っているので、主なる史跡・名勝はほとんど見尽くしている。特に最近の京の旅は源氏物語に関わる名所が中心になっていて、大覚寺、清涼寺、仁和寺、雲林院、六道珍皇寺、石山寺、平等院、比叡山、長谷寺などばかり巡っている。
  しかし、ぜひ行きたいと思いつつ未だにその思いを果たしていないところが一つある。桂離宮である。私の母がこの桂離宮が好きで、何度か行っていて帰って来るなり
  「これほど素晴らしい所はない」
と自慢気に話していたものである。

  桂離宮と源氏物語とのかかわりは必ずしも明確ではない。もとより源氏物語は虚構であるから、物語に登場してくるいろいろの寺や建造物を現実にあるものに置き換えることには無理がある。はっきり名前の出てくる大覚寺や石山寺や長谷寺などは別にして、六条院や嵯峨の御堂などがどこであるのかは分かるはずはない。六条院を源融の邸跡に当て、今の渉成園(東本願寺の近くにある)あたりではないかと言ったり、嵯峨の御堂を清涼寺(大覚寺の南西にある)に充てたりするが、もちろん想像にしかすぎない。

  ところで、標題の桂離宮と源氏物語の関係はあるのだろうか。
  桂離宮は江戸時代の初めに、八条宮智仁親王が自らの別荘として造ったもので、その後何度も整備・増設され現在の形に整い、明治になって宮内庁の管轄下となり、今に至っている。
  源氏物語よりはるかに後のものであるから、桂離宮が源氏物語に登場することなどはありえない。無理に結び付けたりすると、『徒然草』の八十八段や「頼朝のしゃれこうべ」の話のように奇妙なことになってしまう。後者の話だけ説明しておこう。
  あるところに「源頼朝のしゃれこうべ」と表示され、麗々しく頼朝の頭蓋骨が展示棚に陳列されていた。ある人がそれを見て
  「頼朝のしゃれこうべにしては小さすぎるのではないか」
と指摘すると、その展示主、平然とこう言ってのける。
  「いや、源頼朝の子供の頃のしゃれこうべでござる」
 
  『日本歴史大事典』には桂離宮の庭園のことがこう説明されている。
  「公家の伝統的舟遊びのための池庭とともに、書院造庭園・茶庭・枯山水などの要素を総合した回遊庭園の代表的事例。
  三棟の書院建築を雁行形に配置し、前面に広がる池の周囲には松琴亭・賞花亭・笑意軒・月波楼などの茶亭およびその他の庭園建築を配し、これを舟や園路で結び、築山、島、入江、州浜など移り変わる気色を鑑賞する。・・
  藤原氏の桂殿や白楽天(?)の『池亭記』(実際には慶滋保胤~よししげのやすたね~著)に基づいて智仁親王が構想、『源氏物語』の情景を映して、古書院の前面に広がる池庭が作庭された」
  智仁親王という人がどのような人であったかは知らないが、この説明によれば、兼好法師や蕪村のように王朝趣味にかぶれていたのであろう。書院造や枯山水などを除けば、確かに源氏物語に登場する情景そのままで、『胡蝶』の巻にある六条院の優雅な舟遊びなどを髣髴とさせる。

  さてそれでは、桂川とのかかわりはどうなるだろうか。源氏物語に桂川が登場するのは『松風』の巻である。明石の君母子が大井に渡って来たが、紫上に遠慮して、光源氏はなかなか逢いに行けない。それでも嘘や曖昧な説明を交えながら紫上にこう弁解しながら大井に出かけていく。
  『桂に見るべきこと侍るを。いさや、心にもあらで程経にけり。とぶらはむといひし人さえかのわたり近く来ゐて待つなれば、心苦しくてなむ。嵯峨野の御堂にも飾りなき仏の御とぶらひすべければ、二三日は(大井に)侍りなむ』
  「とぶらはむといひし人」とは、明石の君のことで、桂(の院)も嵯峨野の御堂も飾りなき仏も、みな明石の君に逢うための方便である。でもすべてが嘘と言うわけではなく、源氏は嵯峨野の御堂や桂の院を建設中ではある。
  源氏は二日三日の大井訪問を予定していたのだが、三日目に、源氏が嵯峨に来ていることを知った殿上人たちが大挙して桂の院に来てしまって、予定を一日延ばすことになった。そしてここ桂の院で盛大な宴を開く羽目になる。その様子がこうある。
  『大御酒、あまたたびずむ流れて、川のわたりあやふげなれど、酔ひにまぎれておはしまし暮らしつ。・・月はなやかにさし出づるほどに大御遊び始まりていと今めかし』   
  「川のわたりあやふげなれど」とあるところを見れば、宴は桂川の川辺で行われたのだろうか。酒に酔って川に足でもとられそうということであろうから。

 この場面では「月」がしばしば取り上げられる。例えば、源氏たちが桂で宴を開いていることを知った冷泉帝が、羨ましげにこんな歌を贈って来る。
  『月のすむ川のをちなる里なれば 桂のかげはのどけからまし』
  (月の桂と言われるその里では、さぞ月影ものどかに澄むことであろう。円地文子訳  新潮社)
  この歌にもあるように、月と桂は切っても切れないものという伝承があった。月には大きな桂の木が生えていて、その傍らには川が流れているという。つまり月といえば桂であり、桂といえば月なのである。
  桂離宮は、桂川の辺にあるからその名があるのだろうけれども、ここは月の名所でもあるのだ。桂離宮には、先に上げた「月波楼」という茶屋やあるいは「月見台」という建造物がある。もちろん月見が目的の施設である。この二つの建物の前面には6700㎡の池が広がっている。池の面に浮かぶ月影はまさに澄み切っているであろうし、波に揺れる月もまた見物であろう。

  ところで、源氏物語では、嵯峨の御堂が
  『大覚寺の南にあたりて』
とあるのに対して、桂院がどこかの指定はない。ただ大井の邸からは
  『はひわたるほど』
とあるだけである。這っても行けるところ、つまり「ごく近い所」ということである。嵯峨の渡月橋から桂離宮までは五キロもないほどで、まさに「はひわたるほど」である。桂川での宴が終わった後、源氏は参会者に「まうけのもの(禄)」を贈ろうとするが、急なことではあるし、桂の院も出来たてということもあって、「禄なもの」がない。そこで明石君に頼むと、即、大層な禄(主に衣装)を衣櫃に入れて届けて来る。はひわたるほどだからできたのだ。桂離宮は、源氏物語の桂の院を模して造ったことに間違いなさそうである。

  智仁親王は、源氏物語に相当惚れこんでいたのではないだろうか。特に『松風』の巻が好きで、別荘を作るなら、何としても源氏たちが月を愛でながら、「大御酒」をずん流れて大騒ぎをした桂川の辺がいいと思ったのだろう。
  それにしても、この離宮は桂川に直に隣接している。地形がどうなっているか分からないが、洪水の心配などはなかったのだろうか。二年ほど前、大堰川の嵐山あたりは大変な洪水に見舞われている。渡月橋にも水が掛かるほどであったのだから、それより下流の桂離宮のあたりはもっと危険なのではないのだろうか。
  それでもあえてここに離宮を造ったのは、源氏物語へのあくなき憧れがあって、心ある人たちを大勢集めては、月を愛でつつ酒を「順流れ」て飲み、川波の響きに合わせて管弦を楽しみたかったのかもしれない。


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