源氏物語

源氏物語たより45

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  天台密教と真言密教 源氏物語たより45

 横浜市の「歴史探訪 古往今来の会」主催で、『私の好きな近江の仏様』というセミナーがあるというので出かけた。

 講師が、比叡山で修業した福田徳郎という人なので、ひょっとすると、仏像以外に比叡山の話が出るかもしれないという期待があったからだ。もちろん仏像のことについてもいろいろ知りたいことはあるのだが、今は、源氏物語に関することで知りたいことが溢れている。その一つが、天台密教(台密)と真言密教(東密)との関係である。このセミナーで何らかのヒントが得られるかもしれない。
 それに、天王町にある会場の岩間市民センターは、私が源氏物語に触れるきっかけを作ってくれた場所である。元宝塚スター・上原まりの『筑前琵琶で源氏物語を語る』演奏があったところだ。因縁の場所なので、今回も源氏物語との新しい出会いがあるかもしれない。

 私の疑問は、源氏物語に登場する僧侶がほとんど比叡の僧ばかりであるということである。真言宗の東寺(教王護国寺)や高野山の僧は、ひとりも登場しないのはなぜなのだろう。
 冷泉帝に、光源氏と藤壺宮との不義の秘密を洩らした夜居の僧も、比叡の僧であるし、浮舟を救った僧も、比叡山・横川の僧である。その他の寺の僧で登場するのは、醍醐寺、鞍馬寺(光源氏がわらわ病みの治療に行った北山の寺で、実際にはどこの寺なのかは特定されていない)くらいである。また、柏木(頭中将の嫡男)が、瀕死の状態にあった時に呼ばれたのは、金峰山の修験者である。

 東寺は、空海ゆかりの寺で、京都市内の九条にある立派な寺である。比叡山の僧をわざわざ呼び出すよりも、よほど近い。にもかかわらず、真言の僧はなぜ登場しないのだろうか。
 和田氏の講義に、その手がかりがあった気がした。
 最澄を唐に派遣したのは、桓武天皇(平安遷都を行った天皇)である。この時の遣唐使船には、たまたま空海も乗っていた。804年のことである。源氏物語の世界よりも100年ほど前のことだ。(桐壷帝は、醍醐天皇(在位885年~930年)がモデルであると言われているので)
 桓武天皇は、最澄が入唐することで“鎮護国家”の呪術を習得してくるだろうことを期待していた。が、最澄の入唐の目的は違っていた。彼は、天台山で、天台教学を習得することを目的にしていたのだ。
 最澄が長安にいたのは、わずかに2カ月余りで、翌年には京都に帰ってきている。最澄は中国語ができず通訳を通しての学びであったから、その習得には大きなハンデとなった。それにわずか2カ月余りの在唐である。いくら最澄でも難解な鎮護国家の呪力など会得できるはずはなかった。しかし桓武天皇が彼に求めたのは、やはり呪力であった。そのギャップに、最澄は困惑するばかりであったという。

 一方、空海は、在唐2年で帰国した。彼は中国語ができた。それに、かつて
 『四国の山林で修業した時に得た神秘的な体験をきっかけに、真言密教の体系に到達したことを自覚していた』(『日本の歴史 律令国家の転換と日本』 坂上康利著 講談社)
のだから習得は早い。最澄との力は歴然であった。
 そのために最澄は、空海が持ち帰った最新の密教経典を借り受け、必死に学んだという。(以上、講談社 『日本の歴史』参照) 
 しかし、空海が必死に学んだとしても、深遠で普通の人にはうかがい知ることのできない秘密の教えと言われる密教の、その呪術をそう簡単に会得できるものではない。これでは当然、東密に軍配が上がってしまう。台蜜は、なんとかして巻き返しを図らなければならなかった。

 そこに登場したのが最澄の弟子・円仁(えんにん)である。彼は、836年に入唐し、天台教学・密教・五台山念仏などを修学し、約10年間在唐して帰国した。これは半端なものではない。帰国後、比叡山に常行三昧堂を建立し、厳しい修行の場とした。そして、ついに東密に対抗する台蜜の基礎を整備し、比叡山興隆に多大な功績を遺した、という。

 和田氏は、この円仁をおおいに称えていた。円仁は、『慈覚大師』の称号をもらっているが、「大師」の称号をもらったのは、慈覚大師が日本で最初の人であるそうだ。後に、最澄は『伝教大師』の称号を、空海は『弘法大師』の称号をもらっている。また円仁の『入唐求法巡礼記』は、マルコポーロの『東方見聞録』などと並んで、世界三大紀行文なのだそうだ。
 円仁は、下野(今の栃木県)の出身で、東国にも強い勢力を伸ばした。そういえば、江の島神社も山形の山寺も青森の恐山菩提寺も、みな慈覚大師が開基である。それほどに円仁は優れた人物であったのだ。
 この力をもってすれば、台蜜が鎮護国家のために朝廷に深く入り込んだであろうことは想像に難くない。
 恐らく源氏物語の時代には、台蜜が圧倒的な勢威をふるっていたのであろう。それが、物語に登場する僧が、比叡山の僧ばかりである理由なのかもしれない。

 ただし、この間、真言宗(東密)がどういう動きをしていたのかは分からない。東寺は、立体曼荼羅の世界(絵や文字による曼荼羅ではなく、仏像による曼荼羅)を構築し、その呪力は相当なもので、そうやすやすと台蜜に負けていたとは思われないのだが、この間の経過は分からない。相変わらずの私の課題である。

 和田氏の話は、近江の寺々の仏像はもとより、比叡山の修行の様子、消えずの火の話、千日回峰行の実際などを、豊富な知識と体験をもって雄弁に語り進める。何よりも和田氏自身が、比叡山で修業された人であると思うと、いかにも重みがあり真実感がある。
 講義の最後は、“護摩”の焚き方の話になった。護摩は勝手に薪をくべているのではないそうだ。そもそも護摩木の組み方からして、厳格な決まりがあるのだそうで、これ自体微妙甚深の世界で、凡人には理解不能である。護摩は、インドのバラモン教に発し、火の力を持って、煩悩を焼き尽くし、新しい力を再生する祈祷で、燃えさかる火の中に神仏を呼び出し、その火に供え物(米、洗米、大豆、小豆、大麦、小麦、芥子、護摩、丸香、散香)と油を注いで供養して(犠牲を捧げ)、神々の力を借り出すのだそうだ。護摩の炎は2,3メートルにも立ち上る。
 
 源氏物語には、しばしば修法(加持祈祷)の場面が登場する。『玉鬘』の巻の修法の様子を見てみよう。
 玉鬘の夫・鬚黒大将の北の方(正妻)は、精神を病んでいて、しばしば物怪がつく。するとすぐに修法を始める。もちろん五壇を作って不動明王を中心にまつり、護摩を焚いて物怪退散を念じるのだ。その様が生々しい。
 私には「そんなことで効験が現れるの?」と思うばかりなのだが、彼らは真剣そのものである。
 『僧など召して加持まゐり給ふ、呼(よ)ばひ(物怪がついた北の方が)ののしり給ふ声など・・夜一夜、打たれ引かれ、泣きまどひ明し給ふ』
 『修法など騒げど、御物怪こちたく起こり(いろんな霊が次々よりましに付くこと)ののしる』
 やはりそう簡単に効験は現れないようだ。
 和田氏の講義からは私の当初の疑問は解き明かされることはなかったが、それでも実際に修行された方の話を聞けたことが、これからの源氏物語理解に、生きることがるかも知れない。
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