源氏物語

源氏物語たより

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紫上はいつも哀しい(その3) 源氏物語たより46

『今は、かうおほぞうの住まひならで、のどやかに行ひをも、となむ思ふ。この世はかばかりと見はてつる心地する齢(よはひ)にもなりにけり。さりぬべきさまに思し許してよ』



 これが、紫上が、光源氏に向かって訴えた悲痛な叫びである。時に、紫上38歳。
それでは、この悲痛な叫びの意味を探ってみよう。
 まず、「おほぞうの住まひ」とはどういうことであろうか。多くの源氏物語研究書や訳書などを参照にしてみたが、若干の相違はみられるものの、おおむね、「ありふれた俗な暮らし、通りいっぺんの暮らし、ありきたりの生活」または「かりそめの生活」あるいは「ざわざわした生活というような意味で捉えていいようだ。
 いずれにしても、この言葉には、変化のない現状の生活に対する満たされない感情が含まれている。
 準太上天皇の妻として、また広壮で華麗な六条院の実質的な正妻として、何不自由なく満ち足りた生活を送っているものと思っていた紫上が、実は心の奥では、自分の生活を“通りいっぺんで、ざわざわとした、かりそめの暮らし”と思って生きていたというのだ。

 実はこの叫びの直前に、紫上と源氏との関係について、こう記述されているのだ。
 『(朱雀院の娘・女三宮が源氏に降嫁したとはいえ)対の上(紫上)の御勢ひにはえ勝り給はず。年月経るままに(源氏と紫上の)御仲いとうるわしく、睦びきこえかはし給ひて、いささか飽かぬ(不足する)ことなく、隔ても見え給はぬ』
様であった。外見では、紫上の勢いは、女三宮に劣るものではないし、源氏との仲もまことに麗しい状態に見える、というのだけれども、紫上の思いからすれば、それは、ありふれた俗な暮らしでしかなかったというのだ。
 「のどやかに行ひをも」とは、仏道修行をすること、つまり出家したいということである。 
 次に「この世はかばかり・・」とはどういう意味であろうか。
 谷崎潤一郎は『新々源氏物語』で、
 「この世は、これだけのものだということが分かったような気がする」
 山岸徳平は『日本古典文学大系』で
 「この世は(喜怒哀楽などは)、この程であると見尽くして(悟って)しまった気がする」
とそれぞれ訳しているが、それでは「この世」とは一体何なのであろうか。
 紫上は、終始六条院にいて、外に出ることは稀である。誠に狭い空間で生活をしていて、彼女と日頃接触する者といえば、源氏である。同じ邸内には、明石君や花散里や秋好中宮などがいるが、相まみえることはまずない。養子の明石姫宮は、今は東宮の女御であって、めったに里(六条院)に戻ることはない。その他には、取り巻きの女房たちがいるだけである。

 ということは、彼女の言う「この世」というのは、源氏とのかかわりを指しているとしか考えようがないのだ。その源氏とのかかわりを「おおかたこんなものと見極めてしまった」というのである。いうならば、
 「私たち二人の生活は、変化のないありきたりのもので、別に幸せとも思えないし、格別面白味もない生活であるとすっかり分ってしまった」
ということになるであろう。これは、源氏との生活に対する痛烈な批判であり不満の吐露である。

 彼女は、将来に対しても悲観的である。女三宮は、若く生い先が長い。それに比べて、自分は衰えていく一方である。源氏の自分に対する愛は、女三宮に勝っているという自信はあるものの、最近では、女三宮のところに渡る頻度も次第に高くなってきている。それは当然のこととは思う一方、
 『あまり年つもりなば、その御心ばへ(源氏の心)も、つひには衰へなん。さらむ世(そうなってしまう状態)を見果てぬ先に、心と背きにしがな(自分から世を捨てたい)とたゆみなく思しわた』
るのだ。このような状態では、
 『のどやかに行ひ』
をする以外にない。つまり最善の方法は出家することで、出家してこそ、かりそめでない自分らしい生き方ができるのだ。そして、仏道に励むことによって、あの世の幸せと心の安穏を得ることもできる、だからどうか出家を
 『思し許してよ』
と叫ぶのだ。なんという哀切で絶望的な響きであろうか。しかし、源氏は、
 『あるまじく、いとつらき御ことなり。』
 (もってのほかのことで、何とも辛いことです)
と紫上の出家を絶対許そうとはしない。それだけではない。許さないわけを諄々としてこう説くのである。
 「自分も出家の望みを持っている。しかし、今まで出家しなかったのは、あなたのためなのです。私が出家してしまった後、あなたがどんなにもの寂しく思うことか、それが気がかりでなりません。私が出家の望みを遂げたあとに、あなたもどうぞ、どうなりと勝手に決めてください」
 信じられないほどの自分本位の論理である。源氏の傲慢さがいかんなく発揮された言葉で、これまでも紫上は、すべてこのようにして自分の意思を封じられてきた。
 こういう源氏の姿勢こそ、「この世はかばかり」と、紫上に思わせるもとになっているというのに、彼女の苦しみを分かろうとしない。
 「愛している、愛している」と言い続けてきたその人に、厳しく背かれているのだ。自信家でうぬぼれ屋で、いつも自分中心に世界が回っている源氏にとっては、屈辱的ともいえる言葉であるはずなのに、源氏は気づこうともしないのだ。「いとあるまじきこと」と一蹴するばかりである。

 この翌年のことである。紫上が、再び悲しみの叫びを上げなければならない状況がやってくるのは。
 源氏が、自らの生涯について紫上に語っていた時のこと、話は紫上の身の上に至った。そこで彼女にこう言う。
 『(あなたは私という絶対の庇護のもとにいるので)人にすぐれたる宿世(すくせ)とは思し知るや』
 端的に言えば、「私のためにあなたは幸せであったのだと思い知るべきだ」ということである。紫上に幸せを強要しているのだ。いくら自分の妻とはいえ、なんとも不遜な言葉ではないか。それに対して紫上はこう応じる。
 『(あなたのおっしゃるように、頼りない私にとっては過ぎたる宿世、と外からは見られているようですけれども)心にたへぬもの嘆かしさのみうち添ふや。さは自らの祈りなりけり』
 読む者の心をぞっとさせるほどの、やりきれない響きを持った言葉である。
 『小学館 源氏物語(秋山虔ほか著)』では、ここのところが
 「この心に、とても堪えられない何か嘆かわしいことばかりが離れずにおりますのは、それが自分自身のための祈りのようになっているのでした」
と訳されているが、これでは肝心の『自らの祈り』の意味がわからない。しかし、いずれの解説書もみてもこの箇所が訳しきれていないのだ。私は、この言葉には、実に深い意味が込められている気がしてならない。

 紀野一義の『法華経を読む』(講談社現代新書)という本を読んでいたら、思わぬ言葉に出会って、「あ!」と思った。『自らの祈り』とはこのことなのではないだろうか。法華経の中に、
 『常懐悲感 心遂醒悟』(常に悲観をいだいて、心ついに覚醒す)
という言葉があるそうだが、紀野一義はこう訳している。
 「悲しみを大切に抱いていると、それによって心がついに目を覚まし、悟りに導かれるものである」
 紫上は、外目には、幸せな人生を歩んでいると思われていたのだが、実は常に悲しみがつきまとっていた、というのだ。それは耐えられないほどのものだったのだが、考えてみれば、そういう悲しみが身に添っていたからこそ、それが支えになって、自分を生かしてくれていたのではなかろうかというのだ。
 それは、法華経に通じる真理のつぶやきである。
 常に悲しみを抱いているということは、他人の悲しみをも理解できるということだ。悲しみだけではない、周りの人々の喜怒哀楽も分かるということだ。そのことで時々の身の処し方が適切になってくるはずである。それはもう悟りの境地にいると言っても過言ではない。それにしても、あまりに逆説的で、哀しい諦観である。

 源氏が、女三宮のところに渡ることが多くなり、夜がれの続くある夜、ついに紫上は発病する。その夜も源氏は女三宮のところにいた。
 病状が小康を得た時に、彼女は再び源氏に訴える。
 『聞こゆることを、さも心うく』
 (お願い申し上げておりますことを、お許しがないのもつろうございます 小学館)
 もちろん出家の許しのことであるが、源氏は、再び自分の方こそ出家の本望は強いのだ。それでも出家しないのはおまえのためなのだ、と答える。

 この時は辛くも命を取り留めることができた紫上であるが、四年後の秋、再び発病。そして、
 『明けはつるほどに消え入り給ひぬ』
 御歳43歳。
 
 俵万智の『愛する源氏物語(文春文庫)を読んでいたら、瀬戸内寂聴との対談が載っていてこんなやり取りがされていた。
 瀬戸内 万智ちゃんは「源氏」の中では誰が一番好き?
 俵   私は朧月夜が好きなんです。
 瀬戸内 私も好きなのよ。いいわね。じゃ、相当あなた、悪い子よ。(笑)
 俵   源氏に対する恋の仕方が、凄く積極的で。
     (中略)
 瀬戸内 でも、意外だわ。万智ちゃんが朧月が好きなんて。
 俵   「源氏物語」の中で、もし自分に役が与えられて、どの女人になりたいかって言われたら、やっぱり朧月夜がやりた     いです。

 平安時代の女とは思えないほどに積極的な朧月夜に興味をそそられる人は多いようだが、好きとか嫌いとかの問題を越えて、壮大な長編小説・源氏物語の中では、紫上の比重はあまりに重い。朧月夜は比較の対象にはならない。
 常に源氏の傲慢さや婀娜(あだ)なる女性関係に怯(おび)えてきた。そして、その都度「考えを改めなさい」とか「嫉妬深いのだから」とか諭され皮肉を言われ、忍従の日々を送ってこなければならなかった紫上に、やはり私は心惹かれる。それでも、人生の最終章に、絞り出すような哀切な響きをもって、自らの意思を偉大な源氏に吐露することができた、そういう紫上に、私は心惹かれる。

 危篤に陥っている紫上の頭頂の髪を形だけ切り、受戒はさせたものの、ついに出家は許そうとしなかった源氏だが、訣別とも取れる紫上の強い決意に直面しなければならなかったのは、当然の報いと言えよう。
 明けはつるほどに消え入りなされた姿が、源氏の息子・夕霧には
 『何心なくうち臥し給へる御有様の「あかぬところなし(何一つ不足なところはない素晴らしい女性)」』
と映った。紫上自身も、再三にわたって出家を願い出たことで、仏への強い帰依の心があったのだということで、あかぬところなく浄土に行けたのではなかろうか。
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