源氏物語便り

心揺するもの 日本の心 源氏物語語り

母子の別れ  源氏物語たより678 

源氏物語

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     母子の別れ    源氏物語たより678

  大井に移って来たのは秋。その十二月、ついに明石君は娘の姫君を光源氏に手渡し、紫上の養育に委ねることになる。母尼の勧めや最終的には自らの判断もあった。  
  「自分のような頼りない身が姫君をこのまま大井で育てるのでは、彼女の将来にとっても可哀想であるし、そうかと言って自分のような田舎者が源氏さまの所に行って姫君を育てるのも、恥さらしになるばかりであろう」
という理由からである。確かにその判断は正しい。しかし、当然のことながら進んでの決断ではない。三歳まで明石で思う存分愛おしみながら育ててきた我が子なのである。その愛しい我が子と別れなければならないのだ。そればかりか、一たび姫君を紫上に預ければ、その後果たして会うことができるのかどうか心もとない限りである。辛さは一層身に沁みる。
  目に入るすべてのものは彼女を絶望の淵に追いやる。
  『雪、霰がちに心細さまさりて、あやしくさまざまにもの思うべかりける身かなとうち嘆きて、常よりもこの君を撫でつくろひつつ居たり。雪かき暗し、降り積もるあした、来し方行く末のこと残らず思ひ続けて、例は殊に端近なる出で居などせぬを、汀の氷など見やりて・・』
  霰がちの雪、暗く降り積もった雪、汀の氷、それらの自然の景は彼女を深いもの思いに引きずり込む。
悲しみはそれだけではない。今までずっと共に睦まじく姫君を育ててきた乳母とも別れなければならないのである。この乳母は明石君の最も信頼できる相談相手でもあった。思わず愚痴とも取れる歌が出る。
  『雪ふかみ深山の道は霽(は)れずとも なほふみ通へ 跡絶えずして』
  (こんな雪深い大井であっても、あなただけは今後ともやはりここに通ってきてほしい。すっかり後絶えてしまうようなことがないように)
  「ふみ通へ」の「ふみ」は「踏む」と「文」を掛けている。今後は乳母がここまで雪を踏んで通って来ることはないであろう。とすれば、せめてもの願いは「消息だけは絶やさないでくださいね」という必死の思いの吐露である。翻って言えば、姫君には絶対会えないということを覚悟しているということである。

  その雪が溶けた時に、ついに源氏は姫君を迎えに来る。彼女はどうしてこんなことを許してしまったのかと歯ぎしりしつつ後悔する。自分の芯からの思いをはっきり源氏に伝えれば、この悲劇は避けることができたのではなかろうかと思うと、わが軽薄さを恨めしく思うしかない。
  源氏と自分の前にちょこんと座っている姫君がいっそう可愛らしく見える。この春から伸ばしてきた尼削ぎの髪がゆらゆら揺れているのも素晴らしく、顔つきや目つきのつやつやと匂うような美しさは譬えようがない。「ああ、この子と別れなければならないのだ・・」

  ところが、そんな悲しい思いで涙している母親を姫君は少しも理解しようとしない。
  『姫君は、何心もなく、御車に乗らんことを急ぎ給ふ』
のである。車に乗ってどこかに出かけること、それが今の姫君の最大の関心事なのである。母とすればやりきれない。彼女は自ら姫君を抱き車の所に出て行く。通常これはあり得ないことで、当然乳母が抱き車に乗せる。しかしこれが最後であると思えば、彼女は姫君をぎゅっと抱きしめないではいられない。そんな悲しみを三歳の姫君には理解できないのも仕方がない。そして
  『片言の声はいと美しうて、袖を捉えて「乗り給へ」と引く』
のだからやり切れない。自分の置かれている状況を判断できずにいる幼さほど、母親に辛い思いをさせるものはない。悲しさは倍加する。
   さすがに二条院に着いて異常に気付いた姫君は
 『やうやう見巡らして、母君の見えぬを求めて、らうたげにうちひそみ給』
うのである。泣かないで「らうたげにうちひそみ給ふ」ところが、この姫君の必死の我慢と育ちの良さを証明していていじらしく哀れである。
  しかし、やがては紫上の優しさと愛情に抱かれるようにして、姫君は実の母のことを忘れていく。

  何の別れでも悲しくないということはない。中でも母と子の別れほど涙を絞るものはあるまい。いずれ会えるという保証があれば悲しみは半減するのだが、明石君の場合はその保証はない(事実この後八年間というもの、源氏は姫君と明石君を会わせようとしない)。
  源氏物語には、親子の別れが何か所にも描かれている。最初は源氏と彼の母・桐壷更衣の死別である。更衣の「命には限りがありますから死ぬのは仕方ないことではありますが、でもどうしても生きたいのです」という悲痛な辞世の句は、帝との別れもあるだろうが、三歳の我が子との別れが、彼女の慟哭の中心であろう。
  藤壺宮が源氏の求愛を怖れて出家しようと、幼い春宮に告げるところがまた哀れである。母が尼になることを理解できないでいる春宮に、必死に説明しようと四苦八苦する宮の姿が涙を誘う。それでやっと「母と久しく会えないことらしい」と気づいて涙する春宮は
  『御髪はゆらゆらと清らにて、まみ(目もと)の懐かしげに匂ひ給へる』
さまをしている。この子と別れなければならないことの悲しくないはずはない。ただ、藤壺宮の場合は出家であっても山に籠ってしまうわけではないから、会うことはさして困難でもない。
  玉鬘がまたそうである。母が亡くなっていることも知らずに、筑紫に流れて行かなければならなくなった時に、彼女はただ
  『をさなき心地に母君を忘れず、をりをりに「母の御もとへ行くか」と(乳母に)問ひ給ふ』
ばかりで、乳母は涙が絶える時さえないのである。
  朱雀院と女三宮がまた同じ状況である。溺愛する娘を源氏に預けることでひと安心とはいうものの、院にとってはやはり心配は絶えない。思い余って山を下りて来てしまうこともある。
  もう一つの例を上げておこう。薫との愛も匂宮との恋も断ち切って出家を願望する浮舟は、横川の僧都に髪を下してくれるよう懇望する。彼女の心には既に薫も匂宮もない。ただ頭を過るのは母のことだけである。美しい髪を削ぎ落すに当たって僧たちは一瞬躊躇する。髪を下した後、横川の僧都は浮舟に向かってこう言う。
  『親の御方、拝みたてまつり給へ』
  僧都も浮舟の唯一の思いを理解し、母子の恩愛の深さを十二分に知っているのだ。

  源氏物語は、桐壷更衣と源氏との死別から始まり、最後は浮舟が母を思いつつ出家していくところで終わっている。かつて私は源氏物語の大きな主題の一つが親子の恩愛であると言ったことがある。それはかくの如きに親子の別れが、物語の重要な節々に登場するからであり、「心の闇(人の親の心は闇にあらねども 子を思う闇にまどひぬるかな)」という引き歌が、22回も出て来るところからも推測できるのである。

  最後に斎藤茂吉の「死に給ふ母」から一首上げて閉めることにしよう。
  『我が母よ死にたまひゆく我が母よ我(わ)を生まし乳足(ちた)らひし母よ』
 


 

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藤壺宮の死  源氏物語たより677 

源氏物語

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     藤壺宮の死   源氏物語たより677

  『入日さす峯にたなびく薄雲は もの思ふ袖に色やまがへる』

  実に静かな歌である。しかし静かであればあるほど光源氏の絞り出すような悲しみは強められる。声なき慟哭と言っていいだろう。
  彼が、生涯理想の女性として慕い続け、時には過ちもあった藤壺宮は死し、鳥野辺で荼毘に付されて、煙となって空に消えて行った。

  二条院に戻った源氏は日一日泣き暮らすのである。そんな姿を人が見咎めるかもしれないと、念誦堂に籠る。と、
  『夕日はなやかにさして、山際の梢あらはなるに、雲の薄くわたれるが、鈍色なるを、何ごとも目とまらぬ頃なれど、いとものあはれに思さる』
のである。念誦堂の格子を透かしてであろうか、夕日が華やかに射し、梢が鮮やかに見える。その峯に薄雲が横たわっている。優艶なる夢幻の世界を映し出していて、まるで新古今集が好んだ世界である。藤原定家の歌に
  『春の夜の夢のうき橋とだえして 峯にわかるるよこぐもの空』
がある。源氏物語のこの「薄雲」の歌をそのまま写したようである。恐らくこの歌を本歌にしているのだろう。春の夜の夢といえば、艶麗な恋の夢であろう。その夢が「ふと」途絶えて目が覚めた。とその目に、明けていく東の空に紫がかった美しい横雲が、今まさに峯から離れて行かんとしている。甘美な夢の続きに見る横雲である。

  ただ定家の歌には悲しみの響きは微塵もない。ひたすら甘やかな夢幻の世界である。源氏の歌は、優美な上の句から下の句に至って悲しみへと一転する。華やかにさす夕日、峯に棚引く薄雲の夢幻は、一瞬にして現実と入り紛う。彼の着ている衣の袖は鈍色である。つまり喪服なのである。殿上人などは、みな等しく喪服に身を包んで、宮の死を悲しまなかった者はない。
  しかし、源氏の悲しみは、彼らとは次元を異にしている。
  源氏は、二条院の庭前の桜を見て、彼が二十歳、宮が二十五歳の時の「花の宴」を思い出したと、本文にはある。しかし、彼の脳裏を本当に横切っていたのはそうではないのではあるまいか。おそらくそれよりも二年ほど前、強引に宮と契った時のことであるはずだ。拒み切れずに源氏の求愛を受け入れてしまった宮は、
  「何とも辛いわが身」
と嘆かずにいられなかったのだが、そうかと言って完全に源氏を拒絶することはなかった。むしろ源氏との夢のような甘やかな愛に酔ってもいた。
  その時、歓びの悲しみとともに、二度とはないであろう宮との甘美な夢の世界に酔い痴れて、源氏はこんな歌を詠んでいる。
  『見てもまた逢う夜まれなる夢のうちにやがてまぎるるわが身ともがな』
  (今こうしてお逢いはしていますけれども、もう二度とお逢いすることはできないでしょう。だったらいっそのこと、この夢に紛れるようにそのまま私は消えて行ってしまいたいものです)
  「もの思ふ袖」の内容には、「花の宴」のこともあるだろうが、それよりも彼の生涯を通じて脳裏から離れることのない、あの夜の逢瀬に違いないのである。

  今その人はいない。念誦堂で見た峯に横たわる鈍色の薄雲は、鳥野辺で煙となった宮の象徴であろうし、源氏から永遠に離れ去っていく宮そのものでもある。内に秘めながらもこの二十余年間にわたって、源氏の心の中で、華やかに明るく輝き続けていた宮は、そのまま消えて行く。かつては彼が「宮との甘い夢のうちにそのまま紛れてしまうわが身であったら」と嘆いたのだが、今はその宮が空に紛れて行こうとしているのである。まさに滂沱の涙であるに違いない。

  二人が逢瀬を持ったのは三度。最初の逢瀬については具体的な記述がないから分からないのだが、三度目は源氏にとっては屈辱的なものになってしまった。読んでいても顔を赤らめてしまうほどのあられもない醜態を源氏は演じる。それだけではない、源氏のあまりに執拗な求愛に恐怖を覚えた宮は、尼になってしまったのである。それはそうであろう、二人の恋は、禁断中の禁断なのである。中宮を犯すのみならず、二人の間の子が今は春宮なのである。ことが露わになれば、春宮の地位はすべて水泡に帰してしまうばかりではない。二人の人生も終わってしまうのだ。しかし恋に盲目になってしまった源氏は、ことの重大性を認識する理性まで失ってしまっていた。
  それを怖れた宮はついに尼になってしまったのである。尼である以上、恋は成立しない。それ以降、二人の男女の関係は途絶えてしまう。
  しかし、源氏の心に燃え続ける宮への思慕まで途絶えてしまうというものではなかろう。尼としてこの世にある以上、かすかにでもその姿を見ることはできる。
  しかし峯の薄雲となってしまったのでは、もう逢おうにもその手立てはない。しかもその薄雲さえやがては消え行こうとしているのである。鈍色の袖は涙で一層その色を濃くいたことであろう。
  源氏は、宮とのさまざまなことを思い出しながら、庭先の桜に目をやり、古今集の哀傷の歌を口ずさむ。
  『深草の野辺の桜し 心あらば今年ばかりは墨染めに咲け』
  桜が墨染めに咲くことなどあり得ない。しかし、源氏の思いは、「私だけではなく、桜よ、お前も私とともに泣いておくれ」と口ずさまずにいられなかったのだ。

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光源氏の冗談  源氏物語たより676 

源氏物語

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     この訳おかしくないか ~光源氏の冗談~  源氏物語たより676

 
  夕顔のかつての侍女・右近は、夕顔の忘れ形見(玉鬘)を見つけ出したいと、長年にわたって初瀬観音に詣でていた。今回、その効験があって椿市で玉鬘一行に遭遇した。右近は、玉鬘が筑紫で育ったとは思えないほど洗練された美しい娘に育っていることに驚嘆するとともに、ここまで育ててくれた乳母に感謝するのであった。

  翌日は、二つの集団は一緒になって長谷寺の僧坊に降りて、心安げに四方山話に花を咲かせる。それらの話しの中でも玉鬘の容貌に引かれたためであろう、自ずから美人談義となっていく。右近は言う。
  「光源氏様のような高いご身分の方に御奉公するようになって以来、多くの女性方を見るようになりましたが、源氏さまの北の方でいられる紫上様ほど美しい方は見たことがありません。また明石姫君の御容貌も誠に美しくめでたい方でございます。  
  でも玉鬘さまも、このお二方に劣らないほど美しくていらっしゃいますよ。
  故藤壺宮様もお美しい方と伺っておりますが、私は見たことがございませんし、また姫君もまだ大層幼くていらっしゃいますから、これからどう成長されていきますやら。
  さて、紫上様のことでございますが、誰も並び立つものがいらっしゃらないほどの美しさで、源氏様も口には出さないものの、それは認めていらっしゃいます」

  いつまでも右近の美人評定の話は続く。そして、紫上のことを源氏は次のように言っていると付け加える。
  『われにならび給へるこそ、君はおほけなけれ』
  「われ」とは源氏のこと、「君」とは紫上のことである。「おほけなし」とは、辞書的には「分不相応だ、身のほど知らずだ」という意味である。源氏が冗談に紛らわして言っているのだが、さて果たしてここはどう考えたらよいのだろうか。どの解説書やどの訳書を見てもしっくりこないのである。いつも使っているものを列挙してみよう。

  (小学館)この私に連れ添っていらっしゃるなんて、あなたは分に過ぎたお方だ。
  (角川書店)私に並んでいらっしゃるのは(私と夫婦であるの意)、あなた分に過ぎますよ。
  (岩波書店)美しいわれに並びなされた(夫婦になられた事)こそ、あなたは身分不相応(分に過ぎているの)である。
  (林望)そなたは妻として私と肩を並べている、それこそ、身の程に過ぎた幸せだ。
  その他、円地文子は小学館と全く同じであり、瀬戸内寂聴は角川書店に同じである。

  いずれも共通するのが、二人が「夫婦」として並んでいることと解釈している。そうだろうか。源氏は二人が夫婦であることを分不相応と言っているのであろうか。もしそうだとすれば源氏という男は随分無礼千万・不埒極まりなくいけ好かない奴と言うことにならないだろうか。そもそも十七年間も連れ添ってきた妻に対して
  「俺と夫婦であるお前は、分に過ぎた女だ」
などと言うだろうか。夫婦喧嘩でもして言ったとすれば、分からないでもない。でも夫婦喧嘩としてもそんなことを言われば、いたたまれなくて女は出ていくしかないだろう。
 
  確かに、源氏は天皇の子であり今や太政大臣である。釣り合う女性と言えば大臣の娘か内親王くらいしかない。紫上は、父親こそ宮様であり今上の信頼も厚い。しかし、母方はすっかり没落してしまっている。この事実からすれば間違いなく太政大臣の妻としては「分に過ぎている」し「分不相応」である。
  しかし、たとえ事実だとしても、源氏の口からは決して出ない言葉である。それには二つの理由がある。
  一つは、源氏は紫上をこよなく愛していることは確かだし、理想の女性であるといつも認識しているということだ。それに何よりも、源氏が十八歳の時に、北山で垣間見た紫上を拉致まがいに強引に自分の邸に連れて来たのである。彼女に対して一切文句を言える立場にはない。後に女三宮の降嫁に当たって、彼が紫上にあれほど下手に出、遠慮がちに面目なく恥じ入りたく思ったのは、このような経過があるからである。
  二つ目は、いくら紫上が源氏に無理に二条院に連れて来られたとはいえ、源氏との身分差は歴然としていて隠しようがない。そのことを彼女は常に劣等感として持っていた。彼女とさして身分差がないと思われる朝顔に源氏が熱を上げた時にも、「自分は源氏に捨てられるかもしれない」ことをひどく恐れたものである。
  このような情況があるにもかかわらず、
  「お前が俺と夫婦として並んでいるなど、分に過ぎている」
など言うはずはないではないか。もし言ったとすれば源氏は品性本来下劣な男と言わざるを得なくなってしまう。

  それではなぜ学者や訳者はここを取り違えてしまったのだろうか。
  それは右近の話しを正しく把握しなかったからである。物語の流れを見忘れてしまって源氏の冗談に引っかかってしまったからである。

  それでは、もう一度右近の話を振り返ってみよう。彼女は、ここで終始一貫して
  「美女とはどういう女性か」
ということを主題にして話をしている。夫婦の話でもないし身分上の問題を取り上げているわけでもない。その中でも、「世の中で一番美しいのは紫上様のような人であり、玉鬘様もそれに劣らないほどの美しさである」ということを強調しているのである。

  右近が言うまでもなく、源氏は、紫上の美しさは、藤壺宮に並ぶものとしていつも感嘆している。だからそれは今に始まったことではないのである。でも自分の妻が「美しい」などとどこの男が言うだろうか。(時に惚気(のろけ)る男がいるが、聞いていて不快なだけだ)
  でも心中では言いたくてならないのだ。言えない時にはどうするか。冗談に言い紛らわすしかない。しかも源氏は冗談がお得意である。そこで「われにならび給へるこそ・・」という言葉となったのである。つまり美しさにおいて「私と並んでいる」ということである。私ほど美しい男はいない、にもかかわらず、あなたはその点で私に並んでいるとは「おこがましいのでは・・」と言ったのだ。
  紫上は、右近が言うように、いつもみなから美しいと思われ時に言われもする。そのことが源氏を刺激しているのだ。もちろんやっかみでも嫉妬でもない、紫上を愛するが故である。
  源氏は変な男で、よく我褒めをする。京を離れ須磨に落ちて行く時に鏡を見て
  『面痩せ給へるかげの、我ながらいとあてに清らなれば』
と内心思っているし、『野分』の巻でも鏡を見て
   『我が御顔はふりがたく良しと(見給ふべかめり)』
と臆面もなく思っている。もっともここは「めり」があるから許されるが。
  「そんな俺に美貌の点で並ぶとは」ということで、そのことを「おほけなし」と言っているのである。この「おほけなし」を辞書的に訳してしまうから「分に過ぎる」になってしまうのだし「身分不相応」になってしまうのだ。「冗談」「冗談」である。もっと軽く訳さなければならない。「おこがましんじゃァないの」とか「あんたちょっとまずいんじゃあないの」とかが適当なのではなかろうか。
  冗談の中にお惚気が滲んでいて、彼がにやにやしている姿が髣髴とする。

  これに続く右近の言葉にも気を付けなければならない。
  『見奉るに、命のぶる御有様どもなり』
  二人を見ていると寿命が延びるというのである。それほどに並び立って美しいと言っているのである。夫婦も身分も離れた美しさを右近は言っているのである。
  で、この稀に見る美しいお二人に、玉鬘が匹敵する言い、
  『これをすぐれたりと聞こゆるなめりかし』
とまで右近は絶賛している。それほどに玉鬘の美貌は群を抜いていたのだろう。それゆえに後に源氏は玉鬘に年甲斐もなくのぼせ上ってしまうのだ。このように右近の話は乱れることなく「美貌」を焦点化している。
  ところで、この『玉鬘』の巻を含めて以下十帖を「玉鬘十帖」と言って「つまらない」巻としての定評がある。美しいものに現を抜かすほど外から見ていて面白くないものはないからだろう。玉鬘も罪な女性である。
  もっとも、この『玉鬘』と『野分』と『真木柱』の巻は面白いが。

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紫上の明石姫君養育について  源氏物語たより675 

源氏物語

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     紫上の明石姫君養育  源氏物語たより675

  明石姫君を、大井の明石君から引き離し紫上に養育させようとした光源氏だが、子を産み育てた経験のない紫上がどれほど養育できるというのだろうか。確かに、紫上は
  『ちごをわりなうらうたきものにし給ふ御心なれば、(姫君を)得て抱きかしづかばやとおぼす』
ほどなのだから、姫君を可愛がることには違いはないであろう。
  ただ、彼女が、「子供を殊の外、可愛がる人柄」というのは、話の上では極めて唐突であるし、取ってつけた感がなしとはしない。今まで、彼女と、いかなる子供との接点も一切なかったのだ。源氏が、ある時突然どこの馬の骨ともしれない女(明石君)の、その子を紹介し、「あなたが養育してくれればありがたい」と言い出した時に、急に紫上は「子供好き」になってしまった。源氏物語には珍しい説明不足であり、杜撰と言われても仕方がない。
  また、明石姫君が二条院に引き取られてきて、その後、源氏が大井の明石君に会いに行くと言った時にも、さして嫉妬もしなかったのは
  『うつしき人(姫君)に罪許し聞こえ給へり』
ということが理由で、姫君を得たために源氏の浮気が帳消しにされてしまった。
  さらに奇妙なことには、源氏が大井に出かけてしまった時に、彼女は姫君を
  『ふところに入れて、うつくしげなる御乳をくくめ給ひつつ、たはぶれゐ給へる』
ほどに可愛がるのである。これは信じられない行為である。「御乳をくくめ」とは、姫君の口に自分の乳を哺ませることである。子をなしたことのない女性が、やって来たばかりの子供に乳を哺ませるなどということがあるであろうか。しかも女房たちの見ている前でのことなのである。
  この辺りの筋の運びにはいささか無理があると言わざるを得ない。
  源氏は最愛の紫上を都に残したまま、諸般の事情を考慮して泣きの涙で須磨に逃れ、明石に蟄居したのである。正式な流罪ではないと言っても罪を負って都落ちしたことに違いはない。その流謫の最中に愛人を作り、子までなしてしまったのだから、紫上とすれば到底許すことのできない不遜、不貞、不倫(倫理的でないという意味の不倫)と考えるであろう。
  その愛人の子をこうも簡単に溺愛することができるだろうか。

  もう一つ、この場面には無理がある。姫君を紫上に預けるについて、明石君を説得した時の源氏の言い分である。こう言っている。
  「紫上は、すっかり大人になった前斎宮をさえ、強いて親代わりとしてお世話しているのですから、ましてまだ乳飲み子の姫を育てるに何の心配がありましょうか」
  紫上が、前斎宮をそんな風に世話したとは何処にも記述はなかったのだし、何しろ前斎宮は二十歳を過ぎていたのである。そんな大人を紫上が世話をするだろうか。いくら明石君を安心させようという算段だとしても無理なこじつけである。

  さて、これらのことは、あえて省いた部分であるとして認めるとしても、内大臣・光源氏の正妻である者が、どこまで姫君を養育できるものであろうか。姫君には、源氏がわざわざ京から明石に遣わした乳母がいるし、もちろん現地の明石にも元々の乳母がいる。さらに別途に 
  『またやむごとなき人の乳ある(を)そへて(二条院に)参り給ふ』
と新たな乳母まで付けているのだ。それも身分が格段に好く、乳がたっぷり出る女性である。
  したがって、紫上が姫君の養育をする隙はないように思われるし、この後にも彼女による明石姫君養育の様子は特別描かれていない。もちろん琴や歌やその他の学問などは、この乳母たちやそれぞれ専門の女房たちが教えたのだろうから、一体紫上は姫君に何をしてあげる余地があっただろうか。

  ずっと後に、明石姫君が春宮の妃になった時に紫上のことを
  「実の母親以上に思う」
と述懐する場面がある。また紫上の臨終にあっては
  『宮(明石中宮)は、(紫上の)御手をとらへ奉りて、泣く泣く見奉り給ふに、誠に消えゆく露の心地して・・明けはつる程に消え果て給ひぬ』
のである。紫上の最後の最期に姫君がその手を握っている。誠に真の母以上の孝である。しかし、中宮という身分であれば、いくら真の母以上の母とはいえ、手を握ってその死を看取ることなどあるだろうか。
  とにかく、姫君が、かくのごとく紫上に心服し信愛するほどに心を込めて育てきたのだろうがその記述がない。

  源氏物語には「書かれぬ部分」が多いということは、しばしば見るところである。余計なことは省くという姿勢が紫式部にはきわめて強いから、それもやむを得ないことであるし、源氏物語は光源氏の物語であって、紫上の養育などは除外されてしまうのは仕方のないことではある。ただ、少なくとも紫上は、源氏物語のカギを担う一方の重大なヒロインなのである。その紫上の像が、「省筆」の犠牲のために薄れてしまっていることも否めない事実である。とにもかくにも紫上は、源氏の最愛の妻であり理想の女性なのだ。
  彼女の人となりと言えば、源氏の目と心から捉えたものが大半で、彼は、やれ「愛している」と言い、やれ「理想の女性である」と持ち上げる。しかしどう理想の女性であるのかははっきりと見えてこない。はっきりしているのは「嫉妬深い」ということぐらいである。これも源氏の一方的な思いであり、自己の婀娜心(あだごころ)を韜晦(とうかい)する手段に過ぎないのだが。
  紫上がどのように理想的な女性であったのか、私は姫君の養育に関してもう少し述べられても良かったのではないかと思う。そうすれば
  「ああ、紫上ってやっぱり素晴らしい女性なのだな」
という思いを一層深めることができるのではなかろうか。

  姫君がものも分からない数え三歳の時に、突然実の母親から引き離され、二条院にわたってきた時に、心細さから泣いたりしていたのだが、
  『うえ(紫上)にいとよくつき睦びきこえ給へば』
と、まずは紫上になつき睦まじくする場面がある。紫上の優れた資質というものを垣間見ることができるごく限られた描写(具体性はないが)である。しかし、その後が描かれない。姫君が十歳ころのかかわりを、たとえ一か所でも描いてくれたらと残念に思う。
もし描かれていたら、そんな理想的な女性をないがしろにして、他の女性に心を移す源氏という男への憎しみがいっそう湧いてくるだろう。また、女三宮降嫁に際しての三日夜の彼女の哀しみや、『御法』の巻における彼女の死の「あはれ」が、いっそう真実味をもって捉えることができ、読む者の心に深く刺さって来るであろうに。

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なにはともあれ庭園  源氏物語たより674 

源氏物語

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     なにはともあれ庭園   源氏物語たより674

  明石君が大井にわたって来たけれども、まだ邸は完全には出来上がっておらず、いろいろ手入れしなければならないところも残っている。光源氏は、留守番や新しく雇った家司たちに命じてあれこれと修理・修繕させる。前栽の草木も倒れ伏していたりするので、これらは源氏の所領の者どもに命じて繕わせる。
  彼は明石の君に向かってこう言う。
  『ここかしこの立石どももみなまろび失せたるを。情け有りて(趣深く修繕を)しなさば、をかしかりぬべき所かな』
  「立石」とは庭に飾りとして立てて据えた石のことで、それが倒れてしまって見えなくなってしまっているというのだ。そして袿姿で自ら陣頭に立って
  『東の渡殿の下よりいづる水の心ばへ、つくろはせ給ふ』
のである。「渡殿の下よりいづる水」とはもちろん遣水の水である。
  明石入道が、娘・明石君のために造った大井の邸は一時的ないわば仮住まいかと思ったのだが、いやいや随分の豪邸のようである。寝殿から対屋にかけて渡殿まであるのだ。その下から遣水が流れ出ているのだから、その先には大きな池もあるはずで、本格的な寝殿造りのようである。もっとも明石入道は大国の播磨守であったから、金に糸目はつけない。天皇の子である光源氏さまの妻(明石君)が住むべきに相応しいものとして、たとえ仮住まいであろうと豪勢なものにしようと意気込んだのであろう。

  上流の平安貴族たちは一町(120㎡)もの邸を持っていた。立派な殿舎を作ることは勿論であるが、その内部はがらんとしていていた。そこで立派な襖でしきったり、そこに調度などで飾り立てたりした。
  そして彼らの関心の多くは庭園に注がれた。遣水を引き池を広く作りその中に中島を配し、池の背後には築山を造る。そこに松や木斛(モッコク)など立派な木々を植え、また前栽には四季の草花を植え渡した。池や遣水には高価な立石などを配置し、自然そのものを邸の中に再現することに専念した。
  おそらく外出することの少ない姫君や女房の目を楽しませるため、あるいは来客をもてなすことを目的にしたのであろう。また自身も四季の移り変わりを堪能し、作歌などにも役立てていたかもしれない。
  源氏物語の中にも盛んに貴族たちの庭園が描かれる。
  没落宮家である末摘花の邸も荒れ放題になっているとはいえ、かつて華やかだったころを偲ばせるものがある。それは庭木である。成金の受領どもが良い邸を造ろうとして、末摘花の貧窮を侮って、目を付けたのが「この宮の木立」であった。彼らは盛んに
  『放ち給ひてんや』
と売り払うよう迫ってくる。窮したとはいえ常陸宮が心して植えた立木がそのまま残っていたのである。相当立派な庭だったのだろう。
  源氏が流謫の身から京に復帰し、久しぶりに花散里を訪問しようとして大路に車を進めていた。と、その時、ふと彼の目に止まったのが
  『大きなる松に、藤の咲きかかりて、月かげに靡きたる、風につきてさと匂ふ(藤の花の香)』
であった。こうしてすっかり忘れ果てていた末摘花に、松にかかる藤の花を仲立ちとして源氏と再会するのである。つまり貧窮の底にあった末摘花を救ったのは、父宮が残してくれた松と藤の花だったということである。もし成金の受領の庭に移されていたら、彼女の幸せは永久になかった。
  『帚木』の巻にも庭園のことが描かれている。源氏が方違えをと思って選んだのが、紀伊守の邸である。なぜなら、紀伊守の邸では最近中河から水をせき入れて涼しい陰を作っていたからである。立派な遣水に魅かれたということである。その様子は
  『水の心ばへなど、さる方にをかしくしなしたり。田舎家だつ柴垣して、前菜に心とどめて植ゑたり。風涼しく、そこはかとなき虫の声々聞こえ、蛍、しげく飛びまがひて、をかしき程なり。渡殿より出でゐたる泉にのぞきゐて、(供人たちは)酒飲む』
  このくらいの庭を造っておかないと、光源氏さまをお迎えなどできないという心意気なのかも知れない。それにしても「蛍が盛んに飛び乱れる」と言うのだから豪勢だ。
  その源氏も六条院の造営にあたって心こめたのが庭園で、なんと西南(秋の邸)の寝殿から東南(春の邸)の寝殿まで池を繋げて、龍頭鷁首(りゅうとうげきしゅ)の船を漕ぎ渡れるようにしたのである。(このことは『胡蝶』の巻にある)
  『紫式部日記』の書き出しも庭園の様子から入っている。
  『秋のけはひ入りたつままに、土御門殿の有様、いはむかたなくをかし。池のわたりの梢ども、遣水のほとりの草むら、おのがじし色づきわたりつつ、おほかたの空も艶なるに・・やうやう涼しき風のけはひに、例に絶えせぬ水の音なひ、夜もすがら聞きまがはさる』

  このように貴族の邸には立派な庭園があって、彼らはそれぞれ競い合うようにして造園に力を注いだのである。
  ところが、今、京都にはその一つさえ残っていない。これを思うと残念でならない。千年の時と言うものがそうしてしまったのだろうが、人間のおろかしい所業が多くはそれに加担している。その中でも十年にわたる応仁の乱などは、特筆されなければならない愚かさと言うべきであろう。

  京都御所はそれらしい佇まいを残しているが、池がない。御学問所から御常御殿の前にかけて池のような遣水のようなものがあるが、あまりにお粗末で、光源氏には笑われる。大徳寺や南禅寺などには立派な庭はあるが、みな枯山水でこせこせしていて、「ゆおびか」なところがない。あえて言えば、嵯峨の天竜寺や伏見の醍醐寺あたりであろうか。特に醍醐寺の三宝院の池は、寝殿造り(書院造も取り入れてある)を背負っているから平安の面影を偲ばせる。仁和寺の庭も新様式の寝殿造りをバックにしていて好い。
  私の好きなのは、大覚寺である。この寺に繋がっている大沢の池は、いかにもゆおびかで心休まる。JTBの『エースガイド』によれば
  「周囲800メートルほどの広さで、嵯峨天皇が舟遊びをした所。池に沿って歩くと造営当時の姿が偲ばれてくる。日本屈指の古い苑池で、ほとんど原形のまま残されているという。・・池を巡っての観月はここよりほかにないと賞され、中秋の名月には観月の夕べを催す。王朝そのままに龍頭鷁首という船を浮かべ、茶席が設けられる。池の北には古い巨大な椎の木に守られるように石仏が並んでいる。また今では石組みだけとなって、カエデの根元に残っているのが、嵯峨離宮に流れ込んだ名古曾(なこそ)の瀧跡だ」
  大覚寺には、後水尾天皇の紫宸殿を移した寝殿造りがあって、大沢の池はもとより平安の面影を探るにはうってつけである。しかも源氏物語『松風』の巻にこの大覚寺が登場するのである。
  『つくらせ給ふ御堂は、大覚寺の南に当たりて、滝殿の心ばへなど、(大覚寺に)劣らず、おもしろき寺なり』
  この「滝」は、先の「名古曾の瀧(藤原公任の歌『滝の音は絶えて久しくなりぬれど 名こそ流れてなほ聞こえけれ』の百人一首で有名)」を言っている。また源氏が造営している御堂は大覚寺近くの「清凉寺」が当てられるのだから、この辺りは源氏物語を念頭に置きながら散策するには絶好である。

  さて、先ほどの源氏の遣水手入れの後、彼は明石君の母尼と歌の贈答をする。尼君は
  「私は、かつてここに住んでいたのですけれども、今ではその頃もおぼつかなくなってしまって、ただ遣水だけが主人顔をしておりますわ」
と歌い、それに対して源氏はこう応じる。
  「遣水はあなたのことは忘れてはいないと思いますが、あなたが尼に姿を変えてしまったので、戸惑っているのではないでしょうか」
  『常夏』の巻には、若い貴公子を相手に源氏が釣殿に出て、ともに涼を求める場面がある。この席で彼は、内大臣(かつての頭中将)がおかしな娘を引き取った話を内大臣の息子から引きだす。当面のにっくき内大臣の鼻を明かそうというのだ。
  『朝顔』の巻には、朝顔に夢中になっている源氏のことで悩みの深い紫上は、月がいよいよ澄み渡り遣水が氷で行き場を失うように流れているのを見て、
  『氷閉ぢ 岩間の水は行き悩み 空すむ月の影ぞ流るる』
  遣水の水は紫上そのものであろう。

  こう見て来ると、池や遣水などを配した庭園は、ただ鑑賞するものでも、客人をもてなすものでもなく、彼らの生き様そのものであった気がしてくる。

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