源氏物語便り

心揺するもの 日本の心 源氏物語語り

冥途のほだし  源氏物語たより672 

源氏物語

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     冥途のほだし    源氏物語たより672

  玉鬘一行は、長谷寺詣での途次、椿市(つばいち)で右近と邂逅する。右近とは、かつて夕顔の侍女だった者で、夕顔の怪死を知っているただ一人の夕顔側の人物である。玉鬘の乳母たちは、右近との再会の喜びに言うべき言葉も失うほどに感激し、泣き交わすしかなかった。
    少し心が落ち着いたのであろう、乳母は右近にこう語り始める。
『わが君(夕顔)はいかがなり給ひにし。ここらの年ごろ夢にてもおはしまさんところを見んと、大願を立つれど、はるかなる世界にて、風の音にもえ聞き伝へたてまつらぬを、いみじう悲しと思ふに、老いの身の残りとまりたるも、いと心憂けれど、(夕顔が)うち捨てたてまつり給へる若君(玉鬘)の、らうたくあはれにおはしますを、冥途のほだしに、もてわづらひ聞こえてなむ、またたき侍る』
  「わが君はどうなさいましたか。長い年月夢の中でも、わが君がどこにいられるのか知りたいものだと大願を立てておりましたが、なにせ筑紫という遥か遠いところにおりましたによって、わが君のことは風の頼りにも耳にすることさえできませなんだ。
  それを大層悲しいことと思いながらも、こんな老いの身で生き残っておりますこと、何とも情けなく面目ないことでございます。ただ、わが君が残して行かれた若君が、たいそうお可愛く、いじらしいかぎりでいらっしゃいますことが、冥途のほだしとなっているというわけでございましてな。その玉鬘さまのお扱にいろいろ手こずっておりますままに、いまだに目を瞬いているという次第でございます」
という意味である。
 
  私は、この乳母の述懐を聞いて、彼女が相当教養も高く論理に秀でた人物であることをしみじみ感じ取ることができる。涙にむせびながらの心境吐露とはとても思えない程に整った話しぶりで、しかも言うべきことは全てきっちりと冷静に言い切っている。余人にはなかなかこうまで論理だって思いを伝えられるものではない。
  あえてもう一度彼女の述懐の内容を整理してみると
① まずは、わが君(夕顔)の安否を確かめる
② わが君の生存を信じてぜひ会いたいがために大願を立てていた
③が、あまりに遠い所にいたために、風の便りにも知ることができなかった
④ そう思いながらもこの年まで命永らえてしまったことの面目なさ
⑤ それもこれも残して行かれた若君愛しさゆえ
⑥ と同時に若君愛しさが私の冥途の妨げになっている
⑦ というわけで、若君の扱いに苦労しながら、未だに目を瞬いている

  実は、この乳母たちは夕顔のその後の消息については一切知らないのである。あの十
  五夜の翌日、光源氏が突然のように夕顔を「このわたり近き所へ」と誘い出した時に、乳母たちは、源氏という人物の正体をよくも知らなかったので、幾分の不安を残しながらも、源氏が主を「近き所」に誘い出すのを見送るしかなかった。
  この源氏の誘いが夕顔を不慮の死に追いやってしまったのだ。この道行に同道したのが右近なのである。が、右近はそのまま源氏の二条院に引き取られてしまったので、乳母たちは夕顔の死を知らない。生きているとばかり思っていたようだ。
  そんな状況の中で、乳母の夫が太宰の少弐になり、玉鬘を連れて筑紫に下ってしまう。少弐が当地で死んでしまった後も、京に帰還する手立てもなく九州各地を流離うことになる。ようやく上京するのに二十年近い歳月を要していた。
  この間、乳母たちは夕顔に会うべく願を立てていたのだ。一方の右近も、夕顔の遺児・玉鬘に再会できるよう何度も初瀬詣でをしている。このような情況にあるのだから、初瀬での邂逅は互いに涙なくては済まされなかったというわけである。

  さて、乳母の冒頭の話しぶりに戻ろう。ここには洒落た表現が出て来る。「冥途のほだし」と「またたき侍る」である。
  こうした洒落た表現からも、この乳母は相当の学識・才気ある人物であることが分かる。論理の流れや話の内容の的確さなどと合わせて、なかなかの人物のように思える。
  「またたき侍る」とは言い得て妙である。しかもそれは若君の愛らしさいじらしさゆえだという。その裏には若君が幸せを見つけるまでは目もとじられないという意味が込められている。
  また、若君が「冥途のほだし」になっているという表現もいい。「ほだし」とは、元々は馬の足などを繋ぐ縄のことであるが、「自由を束縛するもの」の意として使われる。あの世に逝くのはいいけれども、逝くに往けない束縛があるというのだ。それが若君の愛らしさでありいじらしさであるというわけである。実際には若君の幸せであろう。若君が幸せを得るまではあの世にも逝けないからいまだに「またたいている」ということで、二つの言葉のつながりが絶妙である。

  余談であるが、「冥途のほだし」は誰にでもあるようで、先日、韓国の時代ドラマを見ていたら、処刑寸前の権力者が最後の言葉を求められて
  「手に入れた土地と財宝が目にちらついて死ぬに死ねない」
と言っていた。あさましいほだしではあるが、これもまた人間としてはよく持つほだしなのかもしれない。
  私のほだしは「我が家の庭」である。ほんに小さな庭ではあるが、今の私の最大の憩いになっている。夏の夕べなどは、縁側の椅子に座って酒をちびりちびりと飲みながら、小庭を眺める幸せはない。冬にはジョウビタキやツグミが時折やって来て、驚いた眼をしてこちらを見たりする。
  極楽には蓮の台があって、私もそこに座れるはず(蓮)だが、泳ぎの苦手な私にとってはいささか窮屈だ。時々蛙などが遊びに来たり、妙なる音楽や迦陵頻伽(かりょうびんが)の声なども聞こえて来たりするのかも知れないが、やはりどんなに小さくても我が家の庭がいい。これを何とか極楽に持っていけないものかと思っているのだが、その手立てが未だに見つからない。ということで、これがほだしになっていて当分は逝かれない。
  源氏も「出家!出家」とよく言うのであるが、彼のほだしになるのが紫上であり、明石姫君で、結局最後まで彼の出家姿を見ることができない。
  韓国の権力者のほだしは誠に「現金」なものであるが、私のほだしも自己中心である点では似たようなものだし、源氏もその域を出ていない。玉鬘の乳母には呆れられるだろう。彼女のほだしは何しろ「孝心(公心?)」なのだから。あんな乳母が後見になっているとすれば、今後の玉鬘は相当な幸せを手にするであろうことが予想できる。

  最後に乳母という存在の不思議さに触れて結びとしよう。彼女たちはなぜかくも主に対して忠実でなければならなかったのか。源氏物語の中でも、「我が主 絶対」の様を何度か見てきている(たとえば夕霧の乳母や雲居雁の乳母など)。夕霧や雲居雁のように主の家柄が特別高貴であるとか権力者であるとかであれば分かる気がするが、夕顔の場合はさしたるものではない。彼女の父親は三位の中将であったということでそれなりの身分であるには違いないが、とうに亡くなっている。しかも家も既に没落している。それでもこれほどに忠義を尽さなければならないのは、何なのであろうか。
  この乳母も、二十年近くも生死さえ分からない主を「わが君」と奉り、その無事を祈って願掛けをし続けている。またその遺児をもなんとしても守ろうとする。彼女の夫(少弐)などの玉鬘を守るべく、その意気込みは凄まじかった。彼は死の床で
  『ただこの姫君、京へ率(ゐ)て奉るべきことを思へ。わが身の孝をば、な思ひそ』
  自分の死んだ後の追善供養などは決して思うではない、姫君のことだけを心に懸けよ、と壮絶な遺言を残して逝っている。
  そう言えば、春日局なども、主・竹千代(秀忠の子 後の家光)を守るために命を懸けて駿府の家康の会いに行っている。源氏も、明石姫君が生まれた時に、現地の乳母だけでは不安に感じたのだろう、京からも忠実で優れた人物を派遣すべく、乳母候補と面接までしている。それだからこそ明石姫君(後の中宮)のような優れた女性が育っていったのだろう。
  いずれにしても、現代の我々には、昔の主従関係は分からないことが多いが、名家の乳母などは相当優秀で教養豊かで忠実な人物でなければならなかったこだけは理解できる。

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省筆の妙  源氏物語たより671 

源氏物語

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     省筆の妙    源氏物語たより671

  『蓬生』の巻は、次のような記述で終わる。
  『いますこし問はず語りもせまほしけれど、いと頭いたくうるさく、もの憂ければなむ。今またもついであらむ折に、思ひ出でてなん、聞こゆべきとぞ』
  「もう少し問わず語りもしたいのだけれども、大変頭は痛いし面倒で気も進まないので、今度またついでがあれば、思い出して申し上げるつもりです、ということよ」という意味である。「問はず語り」とは「人が聞きもしないのに、自分から語り出すこと」である。
  源氏物語の話者は、末摘花が光源氏の庇護を受けるようになった結果、さまざまな人の右往左往をここまで語って来たのだが、まだまだ語りたりない。でも頭は痛いし気力も萎えてきたので、この辺りで一旦話すのを止め、またの機会に回しましょう、というのである。

  紫式部得意の「省筆」である。源氏物語全体では、この省筆、ざっと数えても五十か所以上もある。別に頭が痛くなったのでもないし、気力が萎えたのでもない。彼女は、あることないことくどくど書き連ねるのが嫌なのだ。それは品のないことであり、文学芸術の本旨に悖(もと)るというのであろう。歌を何首も書き連ねる『宇津保物語』の轍は踏まないという心意気なのかもしれない。
  源氏物語の省筆の例を上げればきりがないし、それらをぐたぐた列挙すれば、彼女に侮られるかもしれないが、それを怖れず上げてみよう。
  「むつかしければとどめつ」
  「この程のこと、くだくだしければ、例の漏らしつ」
  「かたはらいたければ(具合が悪いので)書かぬなり」
  「さやうのことまねぶに煩らはしくてなん」(「まねぶ」とは、見聞したことをそのまま人に語り伝えること)
  「さのみ書き続くべきことかは」(「さのみ」とは、そのようにむやみに)
  「うるさくてたづねも聞かぬなり」
  紫式部にはプライドがある。知っていることを、あれもこれもと書いたり話したりすることは、思慮ある者のすることではない、と。清少納言が、ことあるごとに知識を閃かせて何でもかんでも得意になって披歴することを、彼女はひどく侮っていた。(それにしては、源氏物語の長いこと)

  右大臣から敵対視され疎外され、心晴れない毎日を送らざるを得なくなった源氏は、ある長雨の降る日、つれづれを慰めようと頭中将など志を同じくする者を集めて「韻ふたぎ(漢詩の韻を使った遊び)」の賭けをする。その結果、中将が負けてしまう。
  中将は「負けわざ(賭けごとに負けた者が、勝った者を饗応すること)」の宴を開くことになった。そこで、漢詩を作ったり管弦をしたり踊りが披露されたりする。
  やがては宴となって、その席で例のとおり参会者が多くの歌を詠う。
ところが、ここでは源氏と頭中将の歌だけを記載し、他の者の歌は披露することなくぴたりと止めてしまう。そして語り手はこう言う。
『多かめりしこと(歌)どもも、かやうなる折の、まほならぬ(出来のよくない)こと数々に書きつくる、「心地なきわざ」とか貫之が諌め(もあり)、たふるる方(貫之の意見ごもっともで)、むつかしければとどめつ』
  これが典型的な省筆である。紀貫之が、ずらずらずらずら書き続けることを快しとしないと言ったとあるが、その史実は明らかではないという。しかしいずれにしても、心ある者は、くだくだしく煩雑なことを書き連ね、語り続けることをよからぬ事とされていた事実はあったのだろう。

  それでは最初の『末摘花』の巻末に戻ろう。
  語り手が「いますこし問はず語りもせまほしけれど」と言っている「問わず語り」とは何を指しているのだろうか。
  実は、源氏に見限られた末摘花を、「今は限り」と奉公人や女房たちは、次々に末摘花邸を去って行ってしまう。ところが、源氏が再び通って来るようになって邸が見違えるほど活気が出てくる。すると、去った者たちは手のひらを返したように
  『上下の人々、我も我も(奉公に)参らむと争ひ出る』
始末になったのである。末摘花が善良無垢なほど内気な性格であることを侮っての行為で、これを厚顔無恥と言う。
  それから二年後、ついに彼女は二条院に迎えられる。破格の扱いである。
 
  末摘花の叔母は、夫の太宰の大弐に付いて筑紫に行っていたのだが、任果てて都に戻ってみると、信じられない事態になっていた。あれほど末摘花を侮り自分の娘の家庭教師にでもしてしまおうと思い、なんとしても筑紫に同道させたかった末摘花がこの有様。あれほどいたぶり、また
  「源氏様ともあろう者が、末摘花のようなとりえのない女を、今後引き続いて世話をするなどありえない」
と馬鹿にしていたのに、なんと、幸せを掴んでしまったのだ。その時の叔母の様を
  『驚き思へるさま』
とだけ言って、終わってしまっている。このさがなき叔母が、末摘花の幸せを見ていかなる行動に出たか、読者の知りたいところである。
  また、末摘花が最も信頼し彼女を陰に陽に助けてきた忠実な女房・小侍従も、あまりの貧困に泣く泣く主人を捨てて、叔母ともども筑紫に去ってしまったのだが、帰ってみれば、この驚天動地の主の変わりよう。彼女はこう嘆く。
  『(末摘花が源氏の庇護を受けるようになったのは)うれしきものの、今しばし待ち聞こえざりつる(自分の)心の浅さを恥づかしう思へる』
  かつて小侍従が、心ならずも末摘花を京に残し、筑紫に下った時の二人の別れは、涙なくしでは見ていられなかったのだが、京に上った時の二人の感動の再会はいかなるものであったか、恐らく涙滂沱であったことだろう。ぜひ知りたいところである。恐らく私のみならず、読者はみなそう思うのではなかろうか。
  それを語りては「頭が痛くなった」の「気力がなくなった」のと勝手に止めてしまった。「ついであらん折に」と言いながら、その後この件に対しての音沙汰はない、のはどういうこと?

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朧月夜の本音は  源氏物語たより670 

源氏物語

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     朧月夜の本音は   源氏物語たより670

  朱雀帝は、譲位に当たって朧月夜のことが気になってならない。譲位後は、彼女が光源氏と結婚して子供まで儲けるであろうことが気がかりなのだ。そこで愚痴を交えながら難詰したり 
  「自分があなたを愛する気持ちは、源氏よりはるかに深い」
などと恋心を切々と訴えたりする。その姿は帝にあるまく、いかにも女々しく未練がましい。
  それでも、そういう帝の訴えを見聞きしながら、彼女は女々しいとも未練がましいとも思わず、内心こんな風に考えている。
「帝の容貌はなまめかしく清らでいられる。私への情愛も年とともに深まってきていらっしゃる。
  帝に比べて源氏さまはご立派な人ではあるけれども、私のことをそれほど深くは思っていて下さらなかった。そんな源氏さまのご様子やお心を、自分がものの道理を理解出来るようになった今考えてみると、あの恋愛沙汰は、自分にとっても源氏さまにとってもとんでもないことだったのだ。若気の至りの思慮のなさに任せて、あのような騒ぎを起こしてしまった。自分の名誉は勿論のこと、あの方にも大変な苦労を掛ける結果(須磨退去事件)になってしまった。何と辛いわが身であることか」

  さてこの朧月夜の心理を、どう解釈したらいいのだろうか。
  本心から源氏との愛情をあるまじきことだったと思い、それを悔いているのだろうか。あるいは帝の切々たる訴えに心打たれ、刹那的に自分の過去を反省したに過ぎないのだろうか。
  朱雀帝の容貌は確かになまめかしく清らではある。しかし、源氏に比べればやはり相手にもならない。したがってこのことで帝に情が移るというのも不自然である。
  また、「源氏さまは、それほど深く私のことを愛してくれたわけではなかった」かのごとく言っているが、それはどの段階のことを指して言っているのだろうか。そんな場面の記述は今までなかったし、源氏は真剣に彼女を愛していたようだったのに。彼女の真意が分からない。

  源氏は確かに多情であり、あまたの女性と関係してはいるが、それぞれの女性に対して嘘偽りのない愛情を注いでいることもまた間違いのないことである。朧月夜に対しても心から愛しているからこそ、五壇の日に弘徽殿で逢瀬を持ったり、彼女の実家(右大臣邸)で情を交わしたりという危険を冒したのではないか。
  しかも、源氏は、帝譲位の今でも朧月夜のことを
  『え思ひはなち聞こえ給はず』
という気持ちでいるのである。諦めることができないという意味だ。朧月夜への愛情が一方ならないものであることを表していて、朧月夜が言っている「帝ほどには深くは思って下さらない」と言うのは当たらない。

  帝が譲位して仙洞に暮らすようになっても朧月夜は
  『憂きに懲り給ひて、昔のやうにもあひしらへ聞こえ給はず』
という態度を取っている。源氏がこっそり手紙を出したりしても、まともには相手にもしないということを言っているのであろう。もっともこの時点では、朱雀院が彼女を片時も傍らから放すことなく時めかしていたから、源氏を相手にすること自体無理だったというのも事実であるが。
  それにしても、今までの激しい恋は何処に行ってしまったのだろうか。二人の恋は終わってしまったとでも言うのだろうか。

  この後、源氏は、明石姫君の誕生や六条院の建設などと慌ただしくなり、身分も内大臣から太政大臣へ、そしてついには准太上天皇にまで成り昇って行くのだから、朧月夜と関係を保つことなど困難な状況になってしまっていることもある。
  どうやら二人の恋は完全に終わってしまったようである。

  ところが、思いもかけない時に朧月夜が登場してくる。朱雀帝の譲位から十一年後、院が出家することになった。おのずから朧月夜はフリ-の身になる。そうなると源氏の色好みに早速火が付いた。
  『飽かずのみ思してやみにし御あたり(朧月夜)なれば、年ごろも忘れ難く、いかならん折に対面あらむ、いま一度逢ひ見て・・と思しわたるを』
  「不満なうちに終わってしまった朧月夜との関係であったので、長い間忘れることなく、何とかしてもう一度逢たいものと思い続けていたけれど」という意味である。「思しわたる」と言うのだから、この十一年間ずっと朧月夜のことは頭から離れなかったのだ。ここから分かることは、少なくとも源氏の方は、彼女との恋は終わらせていなかったということである。

  ある夜、実家に身を引いていた彼女を、ふらりと訪ねる。そして「物越しでもいいから逢いたい」と伝える。だが、女の方はこう答えて応じようとしない。
  『昔より(源氏の)つらき御心をここら思ひつめつる年ごろの果てに・・いかなる昔語りをか聞こえん』
  ここでも、源氏のことを「つらき(薄情な)人」と言っている。しかも「昔より」であり「ここら思ひつめつる」とまで言っているのだ。男の冷淡さをずっと限りなく経験してきたというのだ。つまり源氏との恋は、彼女にとっては決して嬉しいものでも楽しいものでもなかったということだ。あれほど激しい恋をしながら、いつも彼女の心には何か冷たい風が吹いていたとでもいうのだろうか。
  「相手の冷たさ無情さを知りながら」それでも源氏と関係していたということになるが、どうも彼女の心理が理解できない。

  しかしそう思いつつ、源氏が無理にも逢いたいと強要すると、
  『いたく嘆く嘆く、ゐざり出で給へ』
るのである。そういう女の態度を見て源氏は思う。
  「ふふふ、やはりな・・こういう押せば靡く心弱さは昔のままだ。 (林望訳『謹訳源氏物語』祥伝社より)」
  それでも最後の関である襖のカギは堅く閉じて開けようとしない。そこで、源氏は例の神・仏をも和ますような甘い愛の言葉をかけ続ける。すると彼女の心は次第に軟化していき、ついに
  『いま一度の対面はありもすべかりけり』
という心境に変わって行き、襖がすらりと開く。「ありもすべかりけり」が面白い。「もう一度くらい逢っても良いはずなのだ」と、逢う正当性を自分に言い聞かせている。先ほどまでの頑なさはかけらもなくなってしまった。
  こうして、かつて以上の情緒纏綿たる恋が繰り広げられていく。しかも「一方ならず激しく思い乱れて、ただただため息ばかりついて、かつての逢瀬以上に感情を盛り上げていく」というのだ。やがて朝が明けていく。

  こういう彼女の姿を見ながら、源氏は
  『もとよりづしやかなるところは、おはせざりし人』
と評している。「づしやか」とは、「つつしみ深く重々しい」ということである。
  「ふふふ、やはりな・・」という評と「もとよりづしやかなるところは、おはせざりし人」という評は、非常に気になるところである。いずれも女を侮り軽く見ている評である。品のない言葉で言えば「尻軽女」と評していると言っても良い。心から愛している女を評すべき言葉であろうか。愛(恋)というのは、互いに人間としての尊厳を認め合い、その良さを認識するところに成立するのではなかろうか。
  朧月夜に、源氏の「愛の深さ」を疑わせ冷たい風を吹かせたのも、こんな源氏の表面には出ない不遜さが、自ずから彼女に伝わっていたようだ。 

  それはともあれ、朧月夜という女性は、官能的で相手のし甲斐ある女であることは間違いない。だからこそ源氏は魅かれているのだ。
  と同時に、情にももろく、時々で自分の気持ちを翻してしまう人柄であることも確かである。朱雀院の綿綿たる愚痴や愛情吐露に対しても、その場では間違いなく心の底からほだされたのだ。また、この夜も、相手は准太上天皇という立場であることを慮ることもせず、また恋に溺れていっている。その行為が須磨以上の事件に発展しかねないというのに。
  それを慮れない人間としての浅さと、時々の感情に激しく揺すられる起伏の激しい女、それが朧月夜であるようだ。そう解釈すると、冒頭の彼女の思いも嘘ではないとともに、自分の感情を制御できない苛立たしさに身を悶えているという女だったと言えよう。
  「なんと罪深いわが身なのだろう(林望訳より)」という冒頭の嘆きがしみじみ理解できてくる。

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明石入道の豪気  源氏物語たより669 

源氏物語

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     明石入道の豪気   源氏物語たより669

  光源氏が大井の明石君を訪ねた時、それを知った殿上人たちが大挙して源氏の別荘である桂の院にやって来た。そこで源氏は桂川の辺で大層な宴を開くことになってしまった。酒は順(ずん)流れ,詩歌が次々披露され、管弦の響きは桂川の川面に響き渡るという盛大なものとなった。

  源氏は、帝の消息を届けてくれた使者や参加者に「禄として贈るものを」と思ったが、桂の院はできたばかりということもあって、その用意もないししかるべき物もない。そこで大井の明石君のところに
  『わざとならぬまうけの物や(ある)』
と依頼する。「わざわざ大げさなものではなく、禄として贈るものとして相応しい物が何かないか」という意味である。すると明石君は有り合わせのものをと早速送ってきた。それは
  『衣櫃(きぬびつ)二かけ』
であった。「櫃」は、米櫃などの櫃のことで大形の箱をいう。この場合は衣の入った櫃である。「かけ」とは「荷」のことで、肩に担うことができる程度のものである。
  明石君は、源氏の依頼に応じて、男が肩に担うことのできる程度の衣櫃二つも即時に用意したというのだ。しかも使者にかづけた女の装束などは、帝の使者なのだから半端なものではなく、それはそれは高級至極なものであったはずである。それでも「有り合わせの物」と言うのだから驚く。
  宴も終わる頃、参加者は三々五々帰って行く。それらの人々にも身分に応じて引き出物を賜る。彼らは、かづけ物を左の肩に掛け、霧の絶え間にたち交じって散り散りに去って行く。その様はあたかも
  『前栽の花に見えまがひたる色合ひなど、殊にめでたし』
であった。肩に掛けたかづけ物が前栽に咲き誇る花のように見えたというのだから絢爛豪華な物だったわけである。これらのほとんどは、明石君が急遽送ってきた物であったはずで、衣櫃二かけとはいえ相当の数の衣が中に入っていたということで、なんとも豪気なものである。
 
  これらの物は、元々は明石君の物ではない。もちろん明石入道が娘のために用意した物のである。質も、源氏からの贈り物ということになるので、一般人には考えられないほどの最高級品ばかりであったろう。それを即座に用意できるということは、明石入道の財力が並々でなく、底知れないものであることを表している。
 
  明石入道は、かつて近衛の中将という要職にあった。近衛の中将といえば、源氏も若くしてなっているが中央政界での花形であり出世頭である。ところが、彼は自らの偏屈な性格に鑑み、その栄職を捨てて一介の受領になってしまった。それもすべて娘の将来に掛けんがためであった。
  実は彼は、娘が生まれた時にこんな夢を見ていたのである。それは
  『わがおもと(明石君)生まれ給はんとせしその年の二月のその夜の夢に見しやう、自ら(入道)は、須弥の山を右の手に捧げたり。山の左右より月日のさやかにさし出でて、世を照らす』
という信じられない壮大なものである。須弥山とは世界の中央にあるという山で、その山を入道が右手に捧げ、その山の左右から月と日の光りが鮮やかに射していたという。月の光は中宮を、日の光りは春宮を暗示している。なぜなら「世を照らす」というのだから。つまり明石君の娘が、やがては中宮となりその子が春宮となるという誠に恐れ多い夢なのである。
  昔の人は夢を信じた。この夢の実現のためには、中央政界でうだつの上がらない状態でいたのではとても不可能なことである。 
  そこで彼は播磨(大国)の守になったというわけである。(もっとも明石君が生まれたのは彼が中央政界に有った時かどうかは分からないが)

  それではどうして彼は受領になどなってしまったのだろうか。それは受領になれば絶対的な財力を手に入れることができるからである。こんなことわざがある。
  『受領は倒れる所の土を掴め』
  「失敗してもなにがしかの利を得るようにせよ 『広辞苑』」という意味である。「転んでもただでは起きない」と同じである。受領は四年の任期を務めると莫大な財を得ると言う。そのためにとかく芳しくない評判ばかりが残っている。ある歴史書(放送大学教育振興会 『日本古代中世史』)にはこんなことが書かれている。
  「受領という官職は、摂関政治の時期には、実入りの多い一種の利権とも見られていたから、欠員が生じれば、数多くの任官希望者が現れた」
  この事は『枕草子』に何度も何度も、可笑しくまた皮肉な目をもって描かれている。特に播磨のような大国の守は絶大な実入りがあった。紫式部の父・藤原為時は、最初淡路(下国)守に任じられたが、これを不服とする嘆願書を書いた。これに感動した一条天皇が同情し、それを知った道長が、急遽為時を越前(大国)守に変更するという事件が現実に起こっている。淡路と越前では実入りに雲泥の差がでてしまう。
  受領には、徴税や裁判などの権限が与えられていたから、結構さじ加減ができてしまい、中には苛斂誅求(かれんちゅうきゅう)を尽くした者もあったという。このことは今昔物語やその他の書物にもよく出てくる。
  それに彼ら中級貴族にとっては、財力を蓄えるばかりではなく
  「地方官に任命されることが生活上必須の要件となっていた。 徳間書房『平安貴族の世界』」
こともある。

  さて、明石入道は、播磨守の任期が終わると都に帰らずそのまま任地に居座った。そして、明石の地に海辺から岡辺までという広大な敷地を取得した。そこに何棟もの建物を造り、贅の限りを尽くす。それがこんなふうに描かれている。
  『入道の領じ占めたる所どころ、海の面にも山がくれにも、時々につけて興さかすべき渚の苫(とまや)や・・山水の面(つら)に厳めしき堂を建てて三昧を行ひ、この世のまうけに、秋の田の実を刈り納め、残りの齢(よはひ)積むべき稲の倉町どもなど、をりをり所につけたる見どころありて、し集めたり』
  生活の備えに稲の実を刈り集めそれを納めるべく「倉町」を造ったという。「倉」ではない、「倉町」というのだから、何棟もの米蔵がづらりと並んでいたということである。
  ずっと後に、明石君が六条院に移った時に、彼女には「西の町(戌亥の町あるいは冬の町)」が充てられたが、そこには塀を隔てて「蔵町」を造ったとある。恐らくこれらの蔵は明石入道の財産でほとんど一杯になっていたのだろう。
  そればかりではない。彼の邸には、趣向を凝らした立派な池庭が造ら、また言葉にも表せないほどの贅沢な家具・調度がしつらえられ、都のやんごとなき所々にも劣らなかったという。いやそれどころか
  『艶にまばゆきさまは、勝りざまにぞ見ゆる』
というのだから想像を絶する。
 
  娘を天皇の子(源氏)に娶せるだけでも大層な出費を覚悟しなければならなかったはずである。まして孫が中宮となり、ひ孫が春宮ともなれば、その財政的負担は莫大なものである。しかし彼は、受領であったがためにそれを可能にした。
  先の「衣櫃二かけ」などは、彼の財力から言えば、誠に微々たるもので、河童の屁にもならなかったろう。

  (ただ、視点を変えれば、明石入道も相当の苛斂誅求を辞さない受領であったとも言えよう。『若紫』の巻で、良清(源氏の供人)が、明石入道の人柄を語っているが、その中にこういう表現がある。
  『かの国(播磨)の人にも少しあなづられ(みくびられて)、「何の面目ありてか、また都にも帰らむ」と言ひて、頭(かしら)もおろし侍りける』
  播磨守であった頃、彼は播磨の国人たちに尊敬されていなかったのだ。つまり善政を敷いていなかったということである。
  こんな視点で源氏物語を読みなおしてみるのも一興かもしれない)

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桂離宮と源氏物語  源氏物語たより668 

源氏物語

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     桂離宮と源氏物語   源氏物語たより668

  京都には何度となく行っているので、主なる史跡・名勝はほとんど見尽くしている。特に最近の京の旅は源氏物語に関わる名所が中心になっていて、大覚寺、清涼寺、仁和寺、雲林院、六道珍皇寺、石山寺、平等院、比叡山、長谷寺などばかり巡っている。
  しかし、ぜひ行きたいと思いつつ未だにその思いを果たしていないところが一つある。桂離宮である。私の母がこの桂離宮が好きで、何度か行っていて帰って来るなり
  「これほど素晴らしい所はない」
と自慢気に話していたものである。

  桂離宮と源氏物語とのかかわりは必ずしも明確ではない。もとより源氏物語は虚構であるから、物語に登場してくるいろいろの寺や建造物を現実にあるものに置き換えることには無理がある。はっきり名前の出てくる大覚寺や石山寺や長谷寺などは別にして、六条院や嵯峨の御堂などがどこであるのかは分かるはずはない。六条院を源融の邸跡に当て、今の渉成園(東本願寺の近くにある)あたりではないかと言ったり、嵯峨の御堂を清涼寺(大覚寺の南西にある)に充てたりするが、もちろん想像にしかすぎない。

  ところで、標題の桂離宮と源氏物語の関係はあるのだろうか。
  桂離宮は江戸時代の初めに、八条宮智仁親王が自らの別荘として造ったもので、その後何度も整備・増設され現在の形に整い、明治になって宮内庁の管轄下となり、今に至っている。
  源氏物語よりはるかに後のものであるから、桂離宮が源氏物語に登場することなどはありえない。無理に結び付けたりすると、『徒然草』の八十八段や「頼朝のしゃれこうべ」の話のように奇妙なことになってしまう。後者の話だけ説明しておこう。
  あるところに「源頼朝のしゃれこうべ」と表示され、麗々しく頼朝の頭蓋骨が展示棚に陳列されていた。ある人がそれを見て
  「頼朝のしゃれこうべにしては小さすぎるのではないか」
と指摘すると、その展示主、平然とこう言ってのける。
  「いや、源頼朝の子供の頃のしゃれこうべでござる」
 
  『日本歴史大事典』には桂離宮の庭園のことがこう説明されている。
  「公家の伝統的舟遊びのための池庭とともに、書院造庭園・茶庭・枯山水などの要素を総合した回遊庭園の代表的事例。
  三棟の書院建築を雁行形に配置し、前面に広がる池の周囲には松琴亭・賞花亭・笑意軒・月波楼などの茶亭およびその他の庭園建築を配し、これを舟や園路で結び、築山、島、入江、州浜など移り変わる気色を鑑賞する。・・
  藤原氏の桂殿や白楽天(?)の『池亭記』(実際には慶滋保胤~よししげのやすたね~著)に基づいて智仁親王が構想、『源氏物語』の情景を映して、古書院の前面に広がる池庭が作庭された」
  智仁親王という人がどのような人であったかは知らないが、この説明によれば、兼好法師や蕪村のように王朝趣味にかぶれていたのであろう。書院造や枯山水などを除けば、確かに源氏物語に登場する情景そのままで、『胡蝶』の巻にある六条院の優雅な舟遊びなどを髣髴とさせる。

  さてそれでは、桂川とのかかわりはどうなるだろうか。源氏物語に桂川が登場するのは『松風』の巻である。明石の君母子が大井に渡って来たが、紫上に遠慮して、光源氏はなかなか逢いに行けない。それでも嘘や曖昧な説明を交えながら紫上にこう弁解しながら大井に出かけていく。
  『桂に見るべきこと侍るを。いさや、心にもあらで程経にけり。とぶらはむといひし人さえかのわたり近く来ゐて待つなれば、心苦しくてなむ。嵯峨野の御堂にも飾りなき仏の御とぶらひすべければ、二三日は(大井に)侍りなむ』
  「とぶらはむといひし人」とは、明石の君のことで、桂(の院)も嵯峨野の御堂も飾りなき仏も、みな明石の君に逢うための方便である。でもすべてが嘘と言うわけではなく、源氏は嵯峨野の御堂や桂の院を建設中ではある。
  源氏は二日三日の大井訪問を予定していたのだが、三日目に、源氏が嵯峨に来ていることを知った殿上人たちが大挙して桂の院に来てしまって、予定を一日延ばすことになった。そしてここ桂の院で盛大な宴を開く羽目になる。その様子がこうある。
  『大御酒、あまたたびずむ流れて、川のわたりあやふげなれど、酔ひにまぎれておはしまし暮らしつ。・・月はなやかにさし出づるほどに大御遊び始まりていと今めかし』   
  「川のわたりあやふげなれど」とあるところを見れば、宴は桂川の川辺で行われたのだろうか。酒に酔って川に足でもとられそうということであろうから。

 この場面では「月」がしばしば取り上げられる。例えば、源氏たちが桂で宴を開いていることを知った冷泉帝が、羨ましげにこんな歌を贈って来る。
  『月のすむ川のをちなる里なれば 桂のかげはのどけからまし』
  (月の桂と言われるその里では、さぞ月影ものどかに澄むことであろう。円地文子訳  新潮社)
  この歌にもあるように、月と桂は切っても切れないものという伝承があった。月には大きな桂の木が生えていて、その傍らには川が流れているという。つまり月といえば桂であり、桂といえば月なのである。
  桂離宮は、桂川の辺にあるからその名があるのだろうけれども、ここは月の名所でもあるのだ。桂離宮には、先に上げた「月波楼」という茶屋やあるいは「月見台」という建造物がある。もちろん月見が目的の施設である。この二つの建物の前面には6700㎡の池が広がっている。池の面に浮かぶ月影はまさに澄み切っているであろうし、波に揺れる月もまた見物であろう。

  ところで、源氏物語では、嵯峨の御堂が
  『大覚寺の南にあたりて』
とあるのに対して、桂院がどこかの指定はない。ただ大井の邸からは
  『はひわたるほど』
とあるだけである。這っても行けるところ、つまり「ごく近い所」ということである。嵯峨の渡月橋から桂離宮までは五キロもないほどで、まさに「はひわたるほど」である。桂川での宴が終わった後、源氏は参会者に「まうけのもの(禄)」を贈ろうとするが、急なことではあるし、桂の院も出来たてということもあって、「禄なもの」がない。そこで明石君に頼むと、即、大層な禄(主に衣装)を衣櫃に入れて届けて来る。はひわたるほどだからできたのだ。桂離宮は、源氏物語の桂の院を模して造ったことに間違いなさそうである。

  智仁親王は、源氏物語に相当惚れこんでいたのではないだろうか。特に『松風』の巻が好きで、別荘を作るなら、何としても源氏たちが月を愛でながら、「大御酒」をずん流れて大騒ぎをした桂川の辺がいいと思ったのだろう。
  それにしても、この離宮は桂川に直に隣接している。地形がどうなっているか分からないが、洪水の心配などはなかったのだろうか。二年ほど前、大堰川の嵐山あたりは大変な洪水に見舞われている。渡月橋にも水が掛かるほどであったのだから、それより下流の桂離宮のあたりはもっと危険なのではないのだろうか。
  それでもあえてここに離宮を造ったのは、源氏物語へのあくなき憧れがあって、心ある人たちを大勢集めては、月を愛でつつ酒を「順流れ」て飲み、川波の響きに合わせて管弦を楽しみたかったのかもしれない。

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