源氏物語便り

心揺するもの 日本の心 源氏物語語り

光源氏のとんだ勘違い 源氏物語たより549 

源氏物語

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     光源氏のとんだ勘違い   源氏物語たより649

  光源氏が須磨に流れてきて半年ほど経った。須磨は
  『(昔はとにかく)今はいと里ばなれ、心すごくて、海士の家だに稀になむ』
というところである。「心すごし」とは、気味が悪いほどもの寂しいという意味で、かつて京で近衛大将として華々しく活躍していた光源氏のような者が住むべきところではない。半年たっても慣れるどころか、源氏の気持ちはますます落ち込んでいく。一人暮らしに堪えられず、いっそのこと紫上を呼び寄せようかとも思うのだが、彼女にはまして不似合いな浦で、とても呼び寄せることなどできない。
  目にするものは、今まで全く知りもしなかった下人ばかりであるし、こんなところに蟄居している自分自身が
  『かたじけなく』
思われてくる。天皇の子としてこの世に生を受け、人々の期待と称賛に満ちた毎日を送っていた自分だというのに、そんな自分に面目ないし何とも恐れ多いことであると、やりきれず絶望的な気持ちに陥らざるを得ない。

  そんな感慨にふけっているころに、煙がたいそう近いところにまで時々立ち上って来るのを
  『これや、海士の塩焼く(煙)ならむ』
とずっと思いこんでいたのに、実は
  『(源氏が)おはしますうしろの山に、柴というもの、ふすぶる(燻る)なりけり』
と気が付く。源氏ともあろうお方がとんだ勘違いをしていたものだ。女のこと以外ではめったに間違いや勘違いなどしなかったというのに。

  「藻塩」とは、「海藻を焼いて水に溶かし、その上澄みを釜で煮詰めて製する塩(角川書店 古語辞典より)」のことで、その時の煙を「藻塩焼きの煙」といって、古来しばしば歌に詠まれてきたいわば「歌枕」のようなもので、万葉集にも歌われている。源氏物語(『明石』『澪標』の両巻)にも引かれている古今集の
  『須磨の浦に塩焼く煙 風をいたみ 思はぬ方にたなびきにけり』
も、藻塩の煙を使って恋の頼りなさ詠っている。「藻塩の煙は、風がひどいもので思わぬ方に靡いて行ってしまった」と女(男?)の変身をなじったものだ。
  また同じ古今集には、これと似たような歌もある。
  『須磨の海士の塩焼き衣 をさをあらみ 間遠にあれや 君が来まさぬ』
  「をさ」は、機を織る時の器具で、織り目を密にする。「その織り目が荒いように、あの人がやって来る間隔も随分間遠になってしまった」と男の不実を嘆いている。
  百人一首には、藤原定家(源氏物語よりのずっと後の人だが)の次の歌が入れられている。
  『来ぬ人をまつほの浦の夕凪に 焼くや藻塩の身もこがれつつ』
  「松帆の浦(淡路島の北辺の海)で焚いている藻塩のように、私は身も焦れるほどにあの人のことを恋い焦がれている」という意味である。
  とにかく須磨といえば、「藻塩焼きの煙」が象徴しているようなものであり、古来、人々に愛されてきた風物であり、文学には欠かせない素材になってきた。そういうこともあって、源氏は勘違いしていたのかもしれない。

  山に住む身分卑しい者が柴を焚いている煙では歌にもならない。源氏は、自分でも呆れたのだろう、こんな歌を作って気持ちを紛らわす。
  『山がつのいほりに焚けるしばしばもこと問い来なん 恋ふる里人』
  「山賤が小屋で炊いている柴ではないが、しばしば便りを送ってほしいものだ」と言う意である。「里人」とは、都に残してきた人々のことで、特に紫上や藤壺宮などを指しているのであろう。「柴~しばしば」などという平凡な掛詞を使って誤魔化していて良い出来とは言えない。山賤でも詠えそうな歌である。

  それにしても、深刻にして絶望的な心境に陥っている場面に、突如滑稽な「源氏の勘違い」を入れて来る文章構成は紫式部の得意技とはいえ、さすがと言うしかない。
  源氏の勘違いまでは、読者は源氏とともに悲嘆に暮れ、これからどういう辛酸をなめることやらと案じていたはずだが、あまりに場にそぐわない滑稽に
  「あら嫌だわ。光源氏さまともあろうお方が、私でもしないような勘違いをなさって」
と可笑しくなり、「お、ほ、ほ」と思わず口に手を当てたのではなかろうか。
 
  ところが「山がつのいほりに・・」の歌の直後には
  『冬になりて、雪降り荒れたる頃、空の気色も殊に凄くながめ給ひて、琴を弾きすさび給ひて』
と、再び元の絶望の世界に突き進んでいく。「凄く」とは、「ぞっとするほど恐ろしい」という感覚である。背筋も凍る思いを断ちきるかのように、源氏は琴を弾くのだが、楽しんでいているわけではない。「すさぶ」は「心の赴くままに物事をする」という意味もあるが、この場合はむしろ「荒ぶ」が当てはまるような気がする。源氏のいかんともし難い心境を表す弾き方である。その後、供人と管弦の合奏などを始めるのだが、彼らは源氏の琴を聞いて
  『涙をおしのごひあへ』
るしかないのである。
 
  その夜、源氏はまどろむこともできずに、暁まで目を覚ましていた。すると千鳥が大層哀れ深く鳴き交わしている。「でも・・」と彼は思う。千鳥は仲間がいるではないか。
  『とも千鳥もろ声に鳴く暁は 一人寝ざめの床もたのもし』
  一人寝の床に、千鳥の「ち、ち」と鳴く声が寂しげに聞こえて来るが、でも「みんなで一緒に鳴いているのだ、何ともたのもしいことよ」と、気弱にも千鳥に勇気づけられた、と言う。源氏の捨て鉢のような絶望的な真情の吐露である。

  暗から明(あるいは躁)へ、そしてまた暗に展開していく紫式部の物語構成の妙を目の当たりにする思いである。

  ところが、玉上琢弥(角川書店『源氏物語評釈』)は、源氏の勘違いを「滑稽」として捉えていない。
  「須磨といえば『しほやく煙』と思いのほか、『しばやく煙』もあるのであった。寒くなったのである」
と言っている。寒くなったから裏の山で柴を焚きだしたという解釈である。これでは「だから何なの?」と思わせるだけの味気ないものに過ぎない。滑稽を間に挟むからこそ源氏の悲嘆・絶望がよりクローズアップされるというのに。
  そこにいくと、小学館はさすがである。
  「源氏の勘違いが物語に滑稽味を与えながら、それを通して須磨の景に奥行が加わる。柴焚く山里の晩秋である」
と注をしている。
  正しくそして味わい深く源氏物語を鑑賞するには、一冊の解説書では心もとないし、紫式部の文章作法の巧みさを見落してしまうという危険性も出て来る。

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光源氏の魅力 源氏物語たより648 

源氏物語

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     光源氏の魅力    源氏物語たより648

  光源氏の魅力については今更言うまでもなく、その容貌はもとよりあらゆる分野において傑出した能力・才能を持ち、いかなる人物の追従をも許さない。
  そんな源氏を語り手は徹底的に褒めあげる。あまりに褒めすぎて後ろめたさを感じたのだろう、『賢木』の巻でこんな弁解している。
  藤壺宮の御八講に当たって参会の人々が次々登場する。皇子たちも捧物をささげて仏の周りを巡っている(行道)。しかしそれらの人々と比べると
  『大将殿の御用意など、なほ似るものなし。常に同じやうなれど・・』
  「源氏さまの心構え・有様は、他のどなたとも比べようもないほどに勝れていらしゃる。いつも同じように源氏さまを礼賛ばかりしてしまうのですが・・」というわけである。とにかく源氏のやること為すことすべてに褒め言葉を並べるのだから、さすがの語り手も気が咎めるので、こんな弁解がましい言葉が出てきてしまうのだ。
  ところが、その弁解の舌も乾かぬうちに、結局結びは次のようになってしまう。
  『見奉るたびごとに珍しからむをば、いかがはせん』
  「源氏さまは見申し上げるたびに、礼賛したくなるほど優れていらっしゃるのだから、こればかりはどうにもなりませんわ」という開き直りで、「いかがはせん」と言われてしまったのでは、誰も文句の付けようがない。

 私は、源氏の能力・才能のうちでも、「弁舌」の才が最も優れているのではないかと思っている。彼の教育論、音楽論、絵画論、物語論、香道論、女性論などは、いずれもまさに「なほ似るものなし」と言えるレベルの高さである。弁舌が爽やかなうえにその論理の確かさ、意味深さはたとえようがない。

 その中でも、相手の気持ちを浮き立たせる能力には比類ないものがある。これが、彼が女性を籠絡する時の有力な武器になっているのである。空蝉との初会の時に
  「あなたのことははるか以前からずっと心に懸けておりました。このような機会が訪れることを待ち望んでいたのです」
というのである。もちろん今まで空蝉のことなど知りもしないし(噂には聞いていたようだが)全くの「初会」である。平凡な男の言葉だったら、「心にもない嘘八百を・・」と取られてしまうのだが、なにしろあの源氏さまがおっしゃるのだ。しかも彼は「情けなさけしう」言うものだから、真実味が加わり、言われた女性は舞い上がってしまうこと請け合いである。
空蝉に対しては『関屋』の巻でもこの武器を使っている
  源氏が、流謫の境涯から都に復帰できたことも含めて、大行列を仕立てて石山寺に願ほどきに出かける。一方、常陸の介(かつての伊予の介)も、任終えて空蝉ともども、これも大行列を仕立てて帰って来る。この二つの大行列が、なんと逢坂の関で鉢合わせしてしまう。
  この時、源氏は次のような手紙を空蝉に贈る。
  『(私の)今日の御関迎へは、え思ひ捨て給はじ』
  「私が今日わざわざこうしてあなたを関までお迎えに上がった誠意は、いくらなんでも無視することはできないでしょう」という意味であるが、源氏は自分の願ほどきに来ただけであって、ここで出くわしたのは全くの偶然でしかないのだ。にもかかわらず「私の御関迎へ」と言う。しかし言われた空蝉にすれば、悪い気はしない。少なくとも自分に対して心を掛けていてくれたのだと思うだろうから、嬉しくないはずはない。
  軒端荻にも梅壺女御にも朝顔にも、この武器を使って歓心を買ってきた。ただ空蝉は最後まで源氏に靡こうとはしなかった。心の中では、
  「このように夫ある身でなく、独り者の時に源氏さまから声を掛けられていたのだったらどんなに嬉しいことであったか・・」と悔やんではいるのだが。 

  この武器は、源氏がずっと年寄るまで「宝刀」として使われていく。
  五条のごみごみした狭い屋敷でなく、しっとりとしたところでしめやかな逢瀬をもちたいと夕顔を六条の廃院に連れ出した時に、お供をしたのが女房の右近である。右近は
  『艶なる心地して』
美しい二人の道行に、うきうきしながら同道する。ところがその夜、夕顔は急死してしまう。主のいなくなった右近は、「秘密の保持」という源氏の思いもあって、二条院に引き取られる。
  夕顔のことをひと時とて忘れることのない右近は、その忘れ形見である玉鬘を何とか見つけ出そうと、効験あらたかな長谷観音に長年願をかけ続けていた。
  そして、夕顔が亡くなってから十八年後、ついに長谷観音に近い椿市という町の宿で、偶然にも玉鬘一行と遭遇する。
  源氏も、以前から夕顔の娘を探し出せないものかと願っていて、そのことを右近に伝えていた。

  右近は、玉鬘発見の報告をすべく六条院に急いで赴く。源氏を前にして、その顛末を知らせようとすると、源氏はこんな戯れごとを言いかかる。
  『など里居は久しくしつる。例ならずや。まめ人の引きたがえ、こまがへるやうもありかし。をかしきことなどありつらん』
(どうして里下りがこんなに長くなったのか。いつもと違うではないか。まじめ人間だと思っていたのに、それとは反対に「こまがへる」ようなこともあるのだなあ。さぞ良いことでもあったのだろうよ)
  「こまがへる」とは、若返って、好色に乱れるということである。
  右近の歳は分からないが、おそらく源氏と同い歳くらいであろう。というのは、源氏と夕顔の例の道行を「艶なる気持ち」で見ていたのだから、あの当時は、源氏と同じく若かったはずである。
  あの時、源氏は十七歳。それから十八年も経過しているので、右近も三十五、六歳にはなっていよう。三十歳半といえば、当時はすっかり年増で、「恋」などとは縁遠いお年ごろである(源氏は別だが)。
  ところが、源氏は、そういう右近に向かって、「こまがへる」と言い、「何か良いことがあったのだろう」と言う。もちろん戯れごとではあるが、言われて悪い気はしない。人は誰でも他人から若く見られたいものだからである。「恋などする御歳・・」と言われれば、何か心がくすぐられるものだ。ましてあの光源氏さまから言われるのだから、年増も有頂天になってしまうのも道理と言えよう。右近は源氏の戯れごとに対して
  『(この邸を)まかでて、七日に過ぎ侍れど、(私などに)をかしきことは侍りがたくなん』
と真面目に答える。しかし彼女の心の内は、鬱勃として嬉しさをかみしめていたのではなかろうか。

  源氏は、このように人を舞い上がらせる戯れごとを言う能力を、天性として持ち合わせていた。しかもそれを愛嬌たっぷりに情けなさけしく言いかかるというのだから、言われた者は舞い上がる。これは誰にも真似のできない芸当であり魅力である。
  しかし、人の心をくすぐり和ませる、そして何かその気にさせ、生きることに意欲を持たせるそんな能力を、現代人も磨く必要があるのではなかろうか。以前、今は亡き元文部大臣・町村氏の挨拶を聞いたことがある。ほんの五、六分の話ではあったが、聞く者の気持ちを高揚させ、みんなが類ない資質を持っているかのような錯覚を起こさせてしまった。四角四面にありきたりの挨拶を真面目くさって言うばかりでは、世の中味気ない。ぎすぎすした現代では、源氏ほどではないとしても、相手の心を高めるそんな話術を身に付ける必要が特にありそうだ。

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切ないしののめの別れ 源氏物語たより647 

源氏物語

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     切ないしののめの別れ  源氏物語たより647

  光源氏と朧月夜は、五壇の修法の夜、弘徽殿の殿舎で忍び逢うという大胆不敵な行動を取り、官能の美酒に酔い痴れる。しかしいずれにしても別れの朝はやって来る。こんなにわりない機会をそうそう作り出せるものではない。逢う機会が容易に持てない二人にとって、別れほど辛いことはない。朧月夜は
  「自分が招いたこととはいえ、夜が『明ける』という声を聞くにつけても、袖が涙で濡れて仕方ありません」
と嘆く。それに対して源氏もこう応じる。
  「こんな嘆きを抱きながら、この世を過ごしていかなければならないのだろうか。私の胸は悲しみにふたがれて『明く(晴れる)』こととてありません」
  「後朝(きぬぎぬ)」の別れの典型である。

  「後朝」とは、
  「衣を重ねて共寝した男女が、翌朝、めいめいの着物を着て別れること (広辞苑)」である。したがって、一人寝は「きぬぎぬ」にはならない。「きぬ」である。百人一首の次の歌もそれを詠っている。
  『きりぎりす鳴くや霜夜のさむしろに 衣片敷き一人かも寝ん  藤原良経』
  「さむしろ」は、幅の狭い筵のこと。
  「霜が下りる寒い夜、寒々とした筵を敷いて、しかも自分の衣(ころも)一枚だけを掛けて寝なければならないとは。ああ、あの人との共寝だったらなあ・・」
という男の「片敷き」の侘しい心境を詠ったものである。これとよく似た「きぬぎぬ」を詠った歌をもう一つ上げておこう。
  『さ筵に衣片敷き今宵もや 我を待つらむ 宇治の橋姫』(古今集)
  (彼女はただ一人で、自分の着物を寒々とした敷物の上に敷き、今夜も私の訪れを寂しく待っているのだろう、宇治の橋姫は。 詠み人知らず 「日本古典文学全集(小学館)」参照
  愛するあの人は一人寒々として私を待っていることだろう、と男が想像している図であるが、当然男も一人寝ということになる。逢えない事情が何かは分からないが、とにかく一人寝ほど侘しいものはない。

  少々横道に逸れてしまったが、本論に入ろう。同じ古今集に
  『しののめのほがらほがらに明け行けば おのがきぬぎぬなるぞ悲しき』
という歌がある。これは私の好きな歌の一つで、最初の頃は、何かほんのりとした明るい雰囲気を醸していて、声に出して唄っても楽しい歌なので、後朝の悲しみを詠ったものとは思いもしなかった。恐らくそれは「ほがらほがら」という万葉調のおおらかでのびのびとした音調からきていたのだろう。
  ところが、「きぬぎぬ」の意味を正しく理解するようになってから、作者(詠み人知らずではあるが)に対して失礼をしていることに気が付いた。
  先の小学館の「日本古典文学全集」によれば、この歌が
  「男女が逢った翌朝を意味する『きぬぎぬ(後朝)』という言葉の語源(となった歌)」とある。それにしては明るい歌である。
  当時、共寝の時にはそれぞれの衣を相手に掛け合って寝るが、当然、朝になれば男は自分の衣を着て帰らなければならない。つまり「きぬぎぬ」は、朝の到来を示すものであり、別れの辛さ悲しさを象徴するものであった。

  ということは、愛する者たちにとっては「朝などは来なければよいのに」という感情にも繋がっていく。古今集にはこの「きぬぎぬ」の辛さを詠ったものが、634番から645番までなんと十一首もずらりと並んでいる。先の「しののめの」もその一つである。さらにその中の一つ「朝など来るな」を詠ったものを上げてみよう。
  『恋ひ恋ひて稀に今宵ぞ逢坂の木綿つけ鳥は鳴かずもあらなむ』
  「逢坂」は「逢う」の掛詞。「木綿つけ鳥」は鶏の別称。「なむ」は願望の助詞。
  「こんなに恋い慕っているのになかなか逢えなかったが、今宵やっと会えた。だから鶏よ、夜明けを急かすように鳴かないでおくれ」
という意味である。なぜかといえば「鶏が鳴くということは朝が来たということになるし、朝が来たということは別れなければならないことになる」からで、恋する者の心情を素直に表していて、なるほどと思わせる歌である。
  『和泉式部日記』には強烈な話が出て来る。彼女を深く愛した敦道親王から後朝の文が届く。そこにはこうあった。
  『「今朝は鳥の音におどろかされ(起こされ)て、にくければ殺しつ」とのたまわせて、鳥の羽に御文つけて
  「殺してもなほあかぬかな にはとりの折ふし知らぬ今朝の一声」』
  凄まじすぎて、恋の情趣も覚めてしまいそうな勢いだ。

  源氏が空蝉と別れる朝にも「鳥」が登場する。源氏は、空蝉と強引に契ってしまうのだが、空蝉の方は夫ある身として源氏に心許すわけにはいかず、終始頑なな姿勢を崩さないでいた。そのうち夜が明けてしまったので、源氏はこんな歌を詠む。
  『つれなきを恨みもはてぬしののめに とりあへぬまでおどろかすらん』
  ここにも掛詞が使われている。「とりあへぬ」が、「何もしないで慌ただしく」と「鳥」が掛けられているのだ。やや難解である。
  「あなたがあまりに冷たくするので、それを恨み切ることもできないうちに、夜が明けてしまった。鶏までが、慌ただしく私に起きなさいと言っているかのように鳴いているではないか」
という意味である。「怨み言」のみならず、まだまだいつまでもいつまでも空蝉と話し込んでいたいのだが、朝はつれない。

  この他にも源氏物語にはしののめの別れの辛さを語っている場面が多い。源氏と藤壺宮、柏木と女三宮など深刻なしののめである。前者を見てみよう。宮との夜も朝を迎えてしまった時の源氏の心境がこう書かれている。
  『何事をかは聞こえ尽くし給はん。くらぶの山に宿りも取らまほしげなれど、あやにくなる短夜にて、あさましうなかなかなり』
  最初の部分は空蝉との別れと同じ内容である。「くらぶの山」とは「暗部山」のことで、いつまでも夜が明けない山という。そういう山に宿りたい気持ちではあるが、あいにくの夏の短夜で、逢ったがためにかえって嘆きは一層深くなってしまった、という意味である。

  六条御息所との朝の別れもあるが、これは今までのニュアンスと一風変わっている。
  源氏は、故春宮の妃・六条御息所を強引に口説き落として、自分のものとしてしまったが、やがて夜離れ(よがれ)が多くなり、二人の間に隙間風が吹くようになる。
  それでも彼女の所に通って行ったある朝、女房に帰りをそそのかされて、源氏はしぶしぶ起きて帰途に就く。御息所は床から起きもせず、頭をもたげて戸外を見ている。源氏も、彼女にはもう関心がないのか、前栽の花々やそこにいる可愛い女童の姿に見とれている。そして送りに出てきた女房を簀子の隅に座らせて
  「このまま別れてしまうのも惜しい美しい姿だな」
などと戯れて、女房の手を握ったりする。
  古今集にこんな歌がある。
  『ながしとも思ひぞはてぬ 昔より逢ふ人からの秋の夜なれば  凡河内躬恒』
  「秋の夜は長いと一般には言われているけれど、必ずしもそうばかりは言いきれないものがある。昔から逢う人によって長くも短くも感じられるものと言われているから」
といういささか皮肉な歌である。しかし、真実でもある。あまり気に入らぬ人と義務的に共寝する夜はどんなに長く感じられることか。
  先の場面で、源氏は御息所との朝を
  『(女房にもうお起きにならないと)いたくそそのかされ給ひて、ねぶたげなる景色に、(別れを)うち嘆きつつ出で給ふを』
とはあるのだが、実際には飽きが来ているようで、後朝の別れの辛さは少しも感じられない。おそらく六条御息所も「あまり気に入らぬ人」の中に入りつつあったのかもしれない。

  同じしののめでも「逢う人から」で、思いはさまざまになる。
  (ちなみに凡河内躬恒は、私の一番好きな古今集の中の作家である)

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掛詞こだわり症候群 源氏物語たより646 

源氏物語

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     掛詞こだわり症候群   源氏物語たより646

  光源氏と朧月夜は二人示し合わせて、こともあろうに五壇の修法が行われている夜に、弘徽殿の殿舎で密会をする。五壇の修法とは、壇を設けて不動明王を中心に五体の明王を据え、国家安穏、天皇の病気平癒、国家・国民の繁栄(増益)、あるいは和合・親睦(敬愛)などを祈願するもので、国家的行事である。当然天皇も参加する。
  朧月夜は、この夜は天皇がそちらに出てしまうので、男と逢うには絶好の機会と判断したのだろう。夫の留守を狙って男に逢う、それだけ考えても、朧月夜は、情熱的積極的で奔放な女性であることが分かる。彼女はおそらく薬師寺の「吉祥天像」のような豊満な官能的な肢体の持ち主であったのだろう。この夜、二人は目くるめく歓喜の時間を堪能し尽くしたはずである。

  しかし、どんなに官能の快楽に酔い痴れた夜といっても、いずれは明ける。案の定、近衛の夜警の官人が時を知らせるべく回ってきて、
  『寅一つ』
と告げている。
  「寅」とは、昔の時刻の名の一つで、午前四時ごろを指す。ただし当時は一刻を二時間としていたから、寅は午前三時から五時までの間を言った。この場合には、その寅に「一つ」が付いている。一刻(二時間)を四つ(三十分刻み)に区切ったからだ。つまり、「寅一つ」は、その最初の、三時から三時半までを言う。
  今でも落語や講談に出て来る「草木も眠る丑三つ時」がそれに当たる。「丑」は午前二時(一時から三時までの二時間)で、その三つということだから、午前二時から二時半までということになる。人はみな寝静まって魑魅(ちみ)妖怪の出没する時間が、「丑三つ時」なのである。

  夜警の官人の声を聞いた朧月夜は、こんな歌を源氏に詠み掛ける。
  『心からかたがた袖を濡らすかな あくと教ふる声につけても』
  「心から」は「人のせいでなく、自分から」ということで、全体の意味は
 「自ら求めたことではありますが、夜が明けるという夜警の声を聞くにつけましても、あれやこれや辛く悲しい恋の思いに涙で袖が濡れて仕方ございません」
となろう。
 
  ところで、この歌には「掛詞」が使われていると言うのだが、見つけ出せるだろうか。答えは「あく」である。この「あく」を、ほとんどの解説書や訳本が「明く」と「飽く」とが掛けられていると解釈している。つまり「夜が明ける」と「あなたが私を飽きる」という意味が掛かっているということであるが、果たしてそうだろうか。
  例えば小学館の「日本の古典」は、訳の最後に
  「あなたがこの私を飽きるというふうに聞えて」
と付け加えているし、岩波文庫の「日本古典文学大系」は、「『明く』に『飽く』を掛けている」とわざわざ注釈している。角川書店の「源氏物語評釈」は全文を上げておこう。
  「『あく』と教えるあの声、夜は明け、あなたはあきていられると教えるあの声を聞くにつけても、自分から選んだ道ながらあれこれ泣かれてなりません」
  このようにすべての解説書が「あく」を、「明く」と「飽く」の掛詞として、何の疑いも持たずに決めかかっているのである。祥伝社の「謹訳源氏物語」(林望訳)などは
  「私の恋心ゆえに、あれこれと物思いして袖を濡らしております。ああやって、夜が明くと教える声をきくにつけましても・・・だって、あなたがもうこの恋に飽くと聞こえるのですもの」
と訳し、御丁寧にも「明く」と「飽く」の上に点(ヽ)を付けている。

  しかし、源氏が朧月夜を飽きたなどということが、物語のどこに書かれているというのだろうか。この段階で源氏が、この恋に飽きてしまっているなど、とうてい考えられないことである。そもそも飽きているのに、弘徽殿に入り込んで恋の饗宴を繰り広げるなどという危険を冒す男が、この世にいるだろうか。朧月夜にしても、そういう危険を冒してまで自分を求めている源氏を「私のことを飽きていられるのではなかろうか」などと考えるはずはないのである。
  それに二人の恋は、この「賢木」巻の最後にも再登場する。しかも、この時も「こともあろうに」右大臣(朧月夜の父)の邸で逢瀬を持っているのだ。飽きた女と、その女の家で逢うはずはない。
  結局、大胆にして危険すぎるこの逢瀬は、左大臣に見つけられてしまい、源氏は京を離れ、須磨でのわび住まいを余儀なくされる結果になる。
  そんな辛く苦い思いをした相手でも、彼は須磨からちゃんと手紙を送っている。
  『こりずまの浦のみるめもゆかしきを 塩焼く海士はいかが思はん』
 (懲りもしないで今でもあなたに逢いたいと恋い慕っている私を、塩焼く海士はどんなふうに思って見ているだろうか)
という歌で、苦い経験などどこ吹く風、懲りもせず朧月夜との逢瀬を訴え続けている。この歌からも、朧月夜を「飽きた」などという気持ちは一切読み取ることはできない。二人はまさに熱愛中なのである。そして二人の関係は、十五年後まで続いて行く。
  したがって、先のような掛詞の解釈が出るはずはないのである
  私は円地文子(新潮社)の訳が最も妥当であると思っている。それは
  「夜が明けると教える声を聞くにつけても、我が心から別れが惜しく袖を濡らします」
というもので、これで十分意を尽くしているし、実に爽やかで明快で端的である。源氏物語の訳文を読むなら、円地文子のものが最高であると、私はいつも思っている。
 
  円地の訳のように、この歌は後朝(きぬぎぬ)の辛く悲しい別れを詠っているのである。恋する者にとって、夜明けほど辛いものはない。古歌には、これを題材にして詠われたものがいかに多いことか。百人一首にもある。
  『明けぬれば暮るるものとは知りながら なほ恨めしき朝ぼらけかな  藤原道信』
  「朝になればまた夜がやって来る。だから今夜もあなたに逢えることは分かっている。でもやっぱり別れなければならないこの朝ぼらけほど恨めしいものはない」という意味で、別れの辛い心情がよく出ている歌である。恋する者は皆こうなのだ。
  学者や訳者は、掛詞に拘りすぎている。彼らは鵜の目鷹の目で掛詞を探す。うっかり見落とすと大変!とばかり強迫観念に駆られて探し回っているのだろう。あるいは、掛詞の講義で失敗したことがあり、トラウマになっているのかもしれない。
  こうなってしまうもう一つの理由に、「贈答歌の決まり事(ルール)?」みたいなものがある。男の歌に対して、女は反対の(心にもない)感情や意思をもって応えるというものである。ただしこの場面では朧月夜が先に男に歌を詠み掛けているのだから、このルールに拘る必要はない。

  掛詞に拘りすぎるという傾向は、「引歌」でも言える。わざわざ引歌としなくてもその意図は容易に伝わるというのに、やれ「万葉集から引いたものである」とか「古今集からである」とか「拾遺集からである」とか、鬼の首を取ったように詳しく執拗に説明を加える。
  その引歌が分からなければ物語の解釈が不十分になってしまう場合とか、また古歌のイメージを重ねることによって、本文の詩情をますます深めることができるという場合でなければ、無視するか軽く扱っていいのではなかろうか。
  これについてはまた後に述べることにするが、掛詞は一種の言葉の遊びである。掛詞と捉えないと歌の詩情を深くつかむことができないのならとにかく、そうでないのなら、あまり拘ることもない。まして掛詞に拘りすぎて物語の本旨を誤ってしまうのでは問題は大きいと言わなければならない。

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天皇と色好み  源氏物語たより645 

源氏物語

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     天皇と色好み   源氏物語たより645

  前回(たより643)は、桐壷帝の好色について考えてみた。誠に問題のある色好みであることが分かった。
  ただ考えてみれば、古代の天皇にとって「色好み」であることは、「ねばならない」必須の条件でもあったのだ。
  例えば『古事記』なども、子を産むことから始まっている。神々は次々と子を産んで行って、ついにイザナギ、イザナミの神を産んだ。この二神はまたまた子供を産み続ける。こうして淡路島をはじめとする大八島を産み、海を産み、風を産み、山を、野を、樹木を、穀物を・・そしてついに火まで産んだ。イザナミはそのために死に、イザナギがその穢れの祓いをしている最中に、天照大神が産まれた。そしてこの国が栄えていくのである。
  『万葉集』の最初の歌もまたそれに関連している。この歌は雄略天皇の歌で、天皇が野を歩いていると、丘で籠と串を持った美しい娘が草を摘んでいる。天皇はこの娘にこう呼びかける。
  『菜摘ます児、家聞かな、告(の)らさね。そらみつ大和の国はおしなべて我こそ居れ、しきなべて我こそ座(ま)せ。我にこそ告らめ、家をも名をも』
  「この大和の国はすべて私が統治しているのだ。お前の家と名を教えなさい」とのびやかに高らかにそして堂々と歌い上げる。どこの女ともしれぬ者に突然の求婚である。
  でもそれが当時の天皇に課せられた責務でもあったのだ。恐らくこの娘との間に大勢の子をなしたことであろう。
  平安時代の最初の天皇・桓武天皇などは、三十四人の子供を産んでいる。その子・嵯峨天皇は、なんと三十一人の后妃に五十人の子を産ませている。処置に困った嵯峨天皇は、多くの皇子女を臣籍に落としているほどだ。
  天皇は多くの子を産むことが仕事であり、それは天皇家の繁栄のみならず、国を富ますことに繋がっていった。
  桐壷帝は、物語に出て来る子が十人(そのうちの一人・冷泉帝は源氏の子)なので、桓武天皇や嵯峨天皇には及びもつかないが、それでもよく努力したと言える。こう考えて来ると「色好み」などと言ってはいけなかったことが分かる。

  今上天皇は、子供が三人。さらにその皇太子はたったの一人。これではあまりに寂しいし、国民も活力に欠け精力も出ない。どちらかと言えば、現在は秋篠宮(子が三人)の方が世間をにぎわわせている。
  国民も、天皇家を真似たように子供がみな少ない。そればかりか、結婚忌避でもしているように、独身者ばかりが増えていく。そうして、労働力の不足だと言っては外国人を大量に招き入れる。国の亡びを見ているようでなにか不安を感じる。もう一度古代に帰ってみる必要がありそうだ。

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